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「清潔」に詰まっているもの

清潔は時に私を疲弊させ、
時に私を安心させる、
そんな存在だった。

おそらく子育てが始まるまではそこまで清潔を意識したことはなかったと思う。
もともと潔癖症や綺麗好きというわけでもなかったし、
独身の頃に参加したカンボジアのボランティアキャンプでは寝袋生活で髪もまともに洗えないような生活をしたこともあった。
そんな経験から、清潔でなくても人は生きていけるという思いがあったのかもしれない。

しかし、子どもを産んだその日から私には「清潔」と言う名のミッションが次々に押し寄せてきた。

授乳の前に乳首を拭くことや、トイレの度に縫合された会陰部を消毒すること。
自分の身体の清潔を保ちつつ、赤ちゃんの清潔を保たなければならない。
哺乳瓶の消毒や、1日15回とも言われるおむつ替え、着替えに沐浴。

この子の清潔はあなたにかかっているのよ!

誰かからそう言われているようだった。
それもそのはず、自分以外の誰かの清潔を保つということは、かなりの努力が必要なのだ。

赤ちゃん期が過ぎ、子どもが保育園に通い始めると、私に戦いを挑んでくるものがいた。そう、ありとあらゆるウイルス達だ。

保育園の連絡帳アプリに登録されているウイルスは約40種類。

これでもか、また来たか、と言わんばかりに子どもはウイルスを連れてくる。

強敵は何と言っても、嘔吐下痢のウイルスだ。
夜中に咳き込んだと思えば、マーライオンのごとく嘔吐し、一瞬にして布団やシーツがやられる。
子どもを抱っこした状態で嘔吐されたときは、私も子どもも服が汚れ、一瞬時が止まったような感覚になる。

そんな時、私は見えないウイルスに全身を覆われたような、支配されたような気持ちになる。
そして、思う、「早くお風呂に入りたい」と。おそらくこれが私が求める清潔だ。

そんな夜のシャワーは、お風呂の排水溝にどんどんウイルスが流れていくような、そんな爽快感と安心感がある。

だから、やっぱり清潔は私を疲弊させるけれど、私の心を救ってくれるものでもある。

◎◎◎

先日3歳の娘が食事中に咳をした。
その時、娘は咄嗟に両手を口の前に持ってくる仕草をみせた。
私は、背中をさすりながら小さくてぷっくりとした両手で口を覆っている姿が何とも可愛いな、と思いながら見ていた。

こんな感じ


すると、目の前に座っていた5歳の兄が、
「妹ちゃん、そうじゃないよ!こうするんだよ」と腕を口の前に持ってくる仕草を見せた。

兄はこんな感じ

私は「なんで妹ちゃんのは違うの?なんでそれが良いの?」と息子に聞いた。すると、

「あのね、手ですると手のひらにいっぱい唾が付いちゃうでしょ。そしたら、お友達と手を繋いだ時にお友達の手にもばい菌が付くんだよ。他にもその手で触ったところにばい菌が付いちゃって、触った人が病気になっちゃうかもしれないんだよ」と息子は言った。

私が5歳の頃、ばい菌とかウイルスをそんなに気にしたことがあったのだろうか。全く記憶にないけれど。

しかし、5歳の息子は登園時にはマスクをしたり、園の玄関では毎朝検温と手の消毒して、自分のクラスに向かう。今やそれが息子の日常になっている。
きっと咳やくしゃみをするとき、腕で口元を覆うのも保育園で教えてもらったやり方なのだろう。

私だけがウイルスと戦っていたわけではない。

息子にだってウイルスと共に過ごす日常と、ウイルスに気を付けながら他人と過ごす時間があったのだと思った。

それと同時にこんな小さな子どもでも、周りの人のことを考えているのだと感心した。

だから清潔を保つための行動には、疲弊や努力はもちろんあるけれど、

一緒に過ごす人への思いやりもたくさん詰まっているのだと思う。

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