自分が 苦しいと思う事を、ちゃんと 苦しがってもいい


先日、ぼんやり 動画を見ていました。

「あなたへのおススメ」欄に、
はじめて お見かけする方がいて、

なんとなく クリックして 話を聞いてみました。


若い 男性の方で、静かに ゆっくり話しています
スマートでおしゃれな雰囲気の、今風な 外見ですが、


この人のお家は、お寺か 何か だろうか?
と 思うほどの 

完成された安定した こころの持ち主のように 
思いました。


若い方と、話す機会は あまりないので、
イメージですが、

若い人って エネルギーの塊みたいに、もっと こう テンション上げて 騒々しく話す! みたいな
イメージ だったんですね。


でも、そんな風でもなく、
ただ 淡々と  気持ちというか 
静かに ことばを つむいで
そこに コトン コトン  て 置いていくような


静かで シンプルで、 でも
耳をすませずには いられない  そういう人でした


その人が、 「ありのまま を 味わう」

って 言っていたのが すごく 気になりました。


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年をかさねて、 気づき始めたのは、
若いときより、自分自身が 表に出てくる様になった事



つまり、

自分を もう ごまかせなくなったこと


自分のきもちを はきださずには、いられなくなった事


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私は、反抗期というものが なかったんですね

育った環境において、面倒を避ける意味で
抵抗することよりも、

目や耳や口や 心を抑圧することで 
それ以上の難を、逃れようと してきました


『 がまんする事、自分を表現しない事 』

それが、わたしの 生存戦略でした


しかし、家の中では、それでうまく行ったとしても
家の外の世界と かかわりが 増えるにつれて、


「表現できない・しない」= 「気づいてもらえない」
って事に きづくんです。


そう、 周りからは 見えないし、
「ない者・無い事」と されます。


じぶんの中には、「ある」思い でも。

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だれも 自分の事を 察してくれる事は なく、
自分の 行動を変えるのか、環境を変えるのか


自分で 自分を守らなくては なりません。


しんどさのある 家でしたが、
家を離れて、それでも 恩恵を受けていた部分を
かんじました


きっと、
私が こうあってほしい と考えていた事と
家族の 愛情表現の方法が ちがっていたのです


表面的に、「わたしへの攻撃」だと 思っていた事は、

その人の こだわりの正しさを 証明したいという
「じぶんを認めてほしい」という 気持ちの叫びだったようにも 感じるのです。


きっと、寂しかったのは 相手の方だったんですね

あたたかいものを やりとりしたい
そういう風に 
お互いが思っての 食い違いだったようにも思います。


あれから、たくさんの 年数がたったので

きっと、たくさんの経験が お互い ふえて
きっと、たくさんの 笑顔も増えたでしょう

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ずっと、
「人に相談」という事が できない にんげんでした。
弱みを見せれば、攻撃されると 思っていたからです。


周りが 冗談を言って 笑いあっているのが
とても うらやましくって


でも、じぶんが 輪に入っていけない事に
ことばにならない 苦しさを 覚えていました。


人に、こころの内を 晒すことを
善し と できなかったんですね。


誰にも、本音は 話せませんでした。

「弱み」を見せれば、弱い部分を
さらに深くえぐりとられると 思っていたからです。


感じている事を、感じていないふりをすることで
「なんとも思っていない」じぶんを 装いました

自虐ネタ という物が ありますが
あれを やりがちでした。


本当は 傷ついている自分を
おおい隠す ために

外見的 コンプレックスを 「笑い」にするという事は


本当の 自分のきもちを 相手にさとられないための
煙幕だったように 思います。

鎧のようでいて、
じぶんを 守りながら、自分を 傷つける 行為です。


みんなを 笑わせて いるようで、
みんなを 笑顔にできたと 一瞬おもえますが、


あとから
笑われた自分が 悲しくって 前より 傷つくのです


つまり、
道化師を 演じる事で
じぶんが 悲しさを感じて でも、

その方法を とることで、

人に注意を 向けてほしい。
それほど、誰かに 笑顔をむけて ほしいのです


「おどけている」ようで、
泣いている事に 気づかれぬ様
本心を 隠していたのでしょう


それほどまでに、

安心感がえられず、
無意識に じぶんの欠乏感を 満たしたいのです


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人から 好かれようと する前に、
まず、自分を 充分ねぎらうことが 必要です
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でも、
「自分を ねぎらえる」ように なるまで 
 時間が かかるでしょう


だって
自分を守るために、 感情を抑圧してきたのです


・こうでなきゃ 認めてもらえない
・こうすべき、でなきゃ、、、嫌われてしまう

ただ、恐れていたのです。
それほど、怖がっていたのです。


強く 強く にぎりしめていました。

つまり、
安心していられる ような
そんな 心境では なかったのです。

 
でも、今は
以前の自分が、 自分を守ろうとして そうしてきた
のだ と思う事にしました。


きっと、
ほんとうは じぶんが大好きだったから です。


愛がなければ、守ろうとは しません。

ただ、
じぶんの ありのままの気持ちを表現する
そんな方法や、 すなおに表現できる こういう場所を 
知らなかっただけです


だから 今は、

じぶんを 好きになれなかった のではなく
自信が 持てなかった のでもなく、


ありのままのじぶんで いられなかった だけ
そういう風に 思います。


大人になると、
環境を じぶんで 選ぶことができます

苦しい事から、逃げることが あってもいいんだ
自分が 苦しいと思う事を、
ちゃんと 苦しがってもいいんだ そいういう風に 
思います

  ↑
私の場合は、
環境から 逃げ出した後に、
逃げ出した自分を ダメだと 責め続けましたが


自分で じぶんを ものすごく たたきのめした後で

どうしても 認められない自分自身を、


本当は 
・そんな自分を 救いたかった
・じぶんに、愛情を示したかったし
・笑顔に してあげたかった


じぶんを 自分で満たしてあげたかった

って 気づきました。


おかげで 生き延びました
こころを 殺さずに すみました。

時間が かなり経ってから、 
少しは 穏やかに ふりかえられる
そんな時が おとずれました


今、自己肯定感が、、、とか どうでも よいです
社会的に どう見えるか、、、どうでも よいです


ただ、わたしが 生きているだけです


あの時と 見えているものが 別の世界があることに
なんとなく きづけた


そんな 今が  わたしです


耐えてきた 時間が長い人ほど、
自分が 抑圧してきた「なかった事にした感情」に
気づかないと いけないからです


フタをしていれば、しばらくは しのげるけれど
やがて、苦しくなってしまう時が やってきます


そういう人ほど、
じぶんの 本当の思いにきづいて、
「じぶんに優しく」って やりにくいんじゃないかと 思います


そう 思いこんでいた
ただの癖 なんです


まるで、過去のじぶん自身に 言っている様な
そんな ブログでした。


さいごまで 読んでくれた方々 
ありがとうございます。







 




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