短編 かおちゃんとピョンちゃん

「ちょっとピョンちゃん!」

「何?かおちゃん」

「また落書きしたやろ!」

昨晩、寝室で仕事の愚痴を散々吐き出して寝落ちした"かおちゃん"。かおちゃんは翌朝、寝ぼけ眼をこすり、少し大きな寝巻きの袖で大きな欠伸を隠しながら、素足で3メートルほどの廊下を気怠そうに歩く。玄関そばの一畳近くある洗面所に向かい、寝ているかおちゃんに僕が施した落書きを鏡越しに発見する。その刹那から、昨晩の勢いそのままに落書きを擦りながら、寝起きの苛立ちも相まって、寝室にいた僕に向かって猛然と抗議した。洗面所に向かった時の素足とフローリングが擦れる音よりも、鋭い摩擦音が寝室に向かってきていたので、僕は身構えていた。

「かおちゃんが気持ちよさそうに寝てたからつい」

「落書きすんのはええけど、相場は顔に猫ひげとかやん!なんで腰に蝶々なん!ギャルやん!」

「バタフライな」

「どっちでもええわ!今日も仕事やのに〜!」

「見えへんからええやん」

「今日クライアントとの打ち合わせでZIMA飲みたなったらどうするん!」

「そうはならんやろ」

かおちゃんはいつも想定外に素っ頓狂なことを言うので、想定外に自分の言葉も素っ頓狂な方向に進むことがよくある。

「なんで油性で書くんよ〜!」

「水性ペンある家って実家以外この世にないやん」

「消そうとしたら絶妙に滲んで、デザイン恥ずかしなって消そうとしたけどちょっと消すの勿体無いなみたいな感じになったやん!」

「元ヤンの居酒屋店員みたいでええやん」

「まず謝ろかピョンちゃん」

かおちゃんと付き合って4年。今まで真剣に謝ったことなど数えるほどしかない。謝ることも、熱を帯びた議論も、かおちゃんが命名したこの”ピョンちゃん”というあだ名のせいで、いつも砕けて丸くなる。丸くなった曖昧なその柔らかさは6畳の部屋に充満する。かおちゃんの発するその柔らかさに溺れていき、僕の想像し得る領域の範囲外にかおちゃんが連れていってくれる感覚が、僕は好きだった。僕が僕の知らない僕になる感覚も、かおちゃんと住むこの1DKの部屋が教えてくれた。

「ちょっと待って」

「どうした?」

「足首にもちっちゃいハート書いてるやん」

この曖昧な柔らかさは誰のものでもない。春の日の光が心地よく降り注ぐこの1DKでずっと溺れていたい。ここが何よりも安全な場所だ。かおちゃんといると、いつもそう思える。

「罰として、今日の晩御飯作っといてよ!」

「え〜!今日はかおちゃんの当番やんか!」

「お肉がいいなぁ!肉汁軟禁してるやつ!」

「しゃあないなー!」

「んな行ってくるね!」

「行ってらっしゃい!」

二人がハグできるほどの広さの玄関をでて、駅まで徒歩5分ほどの道のりを、セミロングのサラサラとした髪を靡かせながら歩くかおちゃん。そんなかおちゃんを暖かな日の光が降り注ぐベランダから見送った。暖かい光に照らされた川沿いの道を歩く彼女。川に乱反射した光は、"そろそろ美容室行かなあかん"と言っていた彼女の色落ちした茶髪を艶めかせる。川沿いから微に伝わる風は、僕をいつも煢然たる気持ちにさせる。

今日もまた、かおちゃんは行ってしまった。


かおちゃんと出会ったのは大学1年の春。初めてのバイト先であるラーメン屋の先輩だった。

「彪太くんって言うんや!バイトは初めて?」

「はい。」

「まあ、慣れたら大丈夫!がんばろね〜」

「頑張ります!」

「ところで、ピョンちゃんは大学どう?」

「ピョンチャン?いや、オリンピックは目指してないんですけど」

「あ、違う違う。あだ名あだ名」

「あ、あだ名か。すんません。え、ピョンちゃん?」

「でも、彪太って珍しいよなぁ」

「あ、はい。速く太くっていう意味で命名されたらしいんですけど、僕、近年稀に見る運動音痴なんで名前負けしてるんですよ」

「運動できそうな名前やのになぁ!」

「中学生の頃、50m走で10秒台叩き出して親は絶望してました。世の中にはその秒数であんたの倍走るやつおんのにって」

「小学生の頃やったら、まだ伸び代があるって期待できるけれど、中学生となるともう期待がプレッシャーになってたんやって、責任感じてまうもんなぁ」

「そうなんすよ。だからまあ辻褄合わすには、太麺のラーメン屋で働くことぐらいかなって」

「親思いやねんな」

「はい」

初めてのバイトに緊張していた僕は、かおちゃんと話していると、いつの間にか制服を着て社会の一部になっていることなど忘れていた。


「賄い美味しいやろ?」

「美味しいですね!労働の後の体には沁みますね!」

「ここの店のスープって創業以来継ぎ足しやんか」

「そうですね、凄いっすよね」

「てことは、鍋の底とかめちゃめちゃ虫死んでんのかな」

「吐いてきていいすか?」


かおちゃんは少し意地悪でわがままだ。そういった"隙"が愛しくなる。なんてことのない日常から、かおちゃんは僕をかおちゃんのいる柔らかな空間にいざなってくれる。

付き合うことになってから1年。かおちゃんとの空間を自分の空間にしたいと思うようになり、同棲を始めた。かおちゃんと二人で、物件数ナンバーワンの不動産サイトから、今の家に決めた。

「ただま〜」

「おかり〜」

「お肉お肉!」

「今日はハンバーグね!肉汁閉じ込めといたから!」

「やったー!ちゃんと作ってくれてるやん!ありがとう!早く肉汁ちゃんを助けてあげないと〜!」

無理矢理任命された晩御飯の当番だったが、仕事の疲れなど、かおちゃんの笑顔を思うと曖昧になっていた。この広々としたキッチンなら4品作るなど容易いが、一人だと広すぎる。

「かおちゃん、いつもありがとう」

「何よ急に」


今までの思い出を懐古していると、考える前に口が動いていた。





「この家に住み出してもう3年か。と思って」

「あっという間だね」

「この家に二人で住むって決めてよかったね」

「うん。部屋も広いし」

「キッチンも広いし」

「洗面所も広いし」

「玄関も広いし」

「ベランダも広いし」

「日当たりもいいし」

「駅からも近いし」

「サイトで簡単に見つけたし」

「こんないい物件選べるのなんて」

『SUUMOだけ!』



「はいカット〜!」


監督のカットがかかると、僕は”ピョンちゃん”から”岸谷歩”に戻り、”かおちゃん”は”松原紗英”に戻った。

YouTubeの広告で流れるCMらしいのだが、うまくできたであろうか。セリフは台本を受け取った日から何回も読み込んだので、思い出そうとせずともスラスラと口が動いた。役作りも精一杯したし、役のイメージも最大限まで膨らませたので、うまく役に入れたと思う。

切り替えて次のオーディションに臨もう。

それにしても松原さん、かわいかったな〜

松原紗英さんとは「お疲れ様でした〜」とだけ会話を交わし、別々の家に帰ったのだった。






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