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1995.1.17 !!!

  ごおおーーー!       ドーーン!!

  瞬間に私は、母屋に大型のトラックが県道から落ちて来た。
「大変だ!母親が・・・・!」しかし、すぐには動けませんでした。
間髪を入れずに横揺れが来ました。
「地震や!」主人の声で初めて地震が起きたのだと気が付きました。
最初のド∹――ン!は、縦揺れだったのです。
 
 少しして、主人が「火を消せさないと」ガスコンロの火を止めてくれた。
そして母屋へと走ってくれた。その時、母はおもむろに「トイレ」から
大丈夫だとでてきたそうです。
母は、鳥取で地震に会い、明石で南海地震に遭遇していたことから、トイレのような柱の多い所へ逃げ込めと言われていたようです。
 
 1月17日・「成人式」翌日の明け方の5時46分! 
単身赴任中の主人の食事の支度にとりかかろうとした瞬間の事でした。
 
 それから、すぐに子供たちに連絡を取るも、次女には何とか電話がつながったものの、長女には通じません。何度も何度も電話のダイヤルを回すのですが、一向につながらなかった。  

 携帯電話がまだ一般的ではなかったので、固定電話しかなかったため、心配しながらも仕事のために県庁へと行く主人を送って津名港へと車を走らせました。
 
 国道もところどころ通行止めになっており、脇道を探しながらスピードを落として走りました。やっとの思いで港についたので、公衆電話を探して長女に連絡を取りました。幸い、テレビが棚から落ちたものの布団をかぶっていたのでケガもしていないとのことでホット一安心しました。
 
 その日、始発の高速艇は神戸を目指して出発したのです。
主人は、中突堤について、あまりの光景にびっくりしながらも県庁目指して
歩き始めて間もなく、阪神高速道路の無残な倒れた様子に大きなショックを
受けたと言っていました。
 
 橋や道路を作る仕事でしたから、設計時には“強度”には相当の強さを計算しているはずの高速道路が横倒しになっていたのですから・・・・・。
「どおして、こんなことに・・・」と思ったそうです。
 
 県庁までの道のりを歩くもあまりの被害に言葉もないような状態だったと言います。 やっとたどり着いた県庁も扉も開かず人影もないので、とりあえず引き返そうと中突堤に引き返せば、乗って来た船が淡路へ引き返すところでした。すぐに乗り込み帰ってきました。
その中突堤も海の中には、止まっていた車が多数沈んでいたそうです。
 
 私たちの家は幸いにも、棚から少し物が落ちただけ済みました。
その後の悲惨な状況は言葉になりませんでした。今回の輪島のように地震の後に起こった火事で大変なことになっていました。
 
 1月1日の能登半島地震の家の壊れ方や火事が阪神・淡路大震災の時と良く似ています。寒さの厳しい季節でもありました。

 本当に少しでも早い復興を願わずにはいられません。

2024年1月17日の祈り


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