あれ?あいつ飛沫とんでね?

陰の男が頂点から陥落してから、十年以上の時が経った。
陰の男の肉体ダメージは蓄積され、もう二度と闘うことができなくなっていた。
だが彼は満足していた。
親友に去られたあの日をきっかけに改心した彼に、周囲は再び敬意を抱き、彼を讃えた。
その親友とも和解できた。
逆に親友は自身の肉体ダメージは癒え、また頂点を目指そうと努力を重ねた。
陰の男は、彼を支える毎日を送った。

ある日、闘いの場に戻った親友の下に、あの日の毒蛇が祝福に訪れた。
お前が戻って嬉しいと言う毒蛇に喜んだ親友は心を許した。
だが、それは毒蛇の罠だった。
後ろを向く親友に、毒蛇が猛然と襲いかかる。

粉々になってしまった親友を見下ろしながら、毒蛇は勝ち誇る。
「復帰しようなんて間違いだ。家で寝ていればこんなことにはならなかった。お前も、お前の復帰を止めることができなかった家族も、友達も、揃いも揃ってバカで臆病な腰抜けだ」

陰の男は立ち上がる。

親友自身の身体を、そして親友の周囲を傷つける毒蛇を、彼は許すことができなかった。

毒蛇は言う。
「知っているぞ。お前はもう闘えないだろう?家に帰れ。お前はあの日から何も変わらない臆病な腰抜けだ」

周囲が止める。
「毒蛇の言う通りではないが、お前はもう闘えない。お前が毒蛇に粉砕されてしまうのを、誰も、もちろん親友のあいつも望んでいない。やめるんだ」

陰の男は頷く。
そしてゆっくりと前を向く。
その顔は勇気ではなく、覚悟に満ちた顔だった。

「いいんだ。俺が壊れることも、俺を臆病な腰抜けと呼ぶことも。だが、俺の親友を粉砕することも、腰抜けと呼ぶことも許さない。親友の名誉の為、俺と闘え!」

不適に笑う毒蛇が、あの日のように長く大きな舌を出す。
曇り空の割れ目から、一筋の光が差し込む。
照らされた陰の男は、静かにゆっくりと、そしてはっきりとこう言った。

「One more match!」

それは彼が初めて、自分の為でなく、誰かの為に放った、One more matchだった。




×××


場は荒れていた。

そしてスタッフは怒っていた。


迎えたM-1グランプリ1回戦、待機場所のスピーカーから流れてくる他のコンビの演目を耳にしながら、私と相方のアンプリティアー丸島は互いに「よし勝った」と自信を高めあった。

しかし次のコンビのネタは、途中で小さく「ガシャン」という音がしてから、なぜかマイクを通しているはずのスピーカーから聴こえてくることがなくなった。

しばらくしてモップを持ったスタッフが数人、私と丸島の前を走り過ぎていった。


どうやら【右京と相棒】というコンビで、杉下右京に扮したボケ役が、持参した小道具のティーポットから紅茶をティーカップに注ごうとした際、緊張のあまりミスって紅茶ごとティーポットを落下させてしまったようだ。


「10分間の休憩にしまーす」とスタッフが我々に伝えてきた。

1グループ4組が2分間のネタを連続して行うシステムのこの一回戦で、右京と相棒は前の前のグループであり、そろそろ舞台裏に行かなきゃいけないのか…と緊張しきっていた私と丸島は、良い意味で解される形となった。

「続けよう」

目の前でネタ合わせをしていた3人組のデブのうちの1人がそう言った。

いちご倶楽部という名の彼らは3人ともが明らかに90キロ近い巨漢であり、それぞれが白のロングパンツに赤、青、黄色のTシャツを着ていた。

デブ青「さっすがカリスマ!」

デブ赤「あ?誰が仮住まいだって?」

デブ青「あ?言ってねえよそんなこと」

デブ赤「てめバカにしてんのかよ!」

デブ黄色「やめろやめろやめろ!」

…これ普通に面白いな。

そう思って隣を見ると丸島はプフフッと普通に吹き出していた。

その光景を見た近くのモヒカン頭がフンッと鼻で我々を笑うのがきこえた。

まるで「お前らレベル低いもんどうしお似合いだな」とでも言わんばかりに。

モヒカンとその相方は【サマーウォーク】というフリーのプロコンビらしい。

気に入らない奴らだ。不愉快だ。

さらにその横では高級そうなスーツを決め込んだ若いイケメンの2人組が丸島を睨みつけるように見ていた。

俺たちはキャラじゃなくセンスであがってきた。そんな連中みないで俺らのセンスを見ろ、とでも言わんばかりに。

彼らは【ヒットエンドラン】。アマチュア。

そしてもう1組。背中を向けながら「もう私緊張で無理です」とうずくまる女を「大丈夫だから。ね。出し切ればいいんだよ。自分たちが楽しめばいいんだ」とヤサヤサしながら労る男の男女コンビ。
【サンアンドムーン】。フリーのプロコンビ。

これに私と丸島の【クリスチャンズ】を加えた4組が1グループとなり、連続でネタをやることになる。


「休憩終わりまーす」

スタッフがようやく声を掛けた。


「サマーウォークさん、ヒットエンドランさん、サンアンドムーンさん、クリスチャンズさん。舞台裏へお願いします」

×××

舞台裏は地獄だった。

誰もが無言になる中、ただひとり、右京と相棒の右京さんが割れたティーポットやらティーカップを片付けるカチャカチャという音だけが響いた。


そこに右京さんがいると知ってか知らずか、扉横からスタッフの雑談が聞こえてきた。

「いやマジ超大変だったんだけど」

「さっきの休憩なんだったんですか?」

「杉下右京が舞台で紅茶こぼしやがったんだよ。びしょびしょにしやがって」

「紅茶ですか?」

「小道具持ち込んでんだよ。漫才の大会だっつーの。キングオブコントいけよ。余計なことしてんじゃねえよ」

死ぬほど残酷な陰口がほぼ真横で聞こえる中、右京さんはもう一つのティーポットに入っていた紅茶を空のペットボトルにうつしかえていた。

ようやく机の片付けが終わると、ポットとカップとペットボトルを何やらサンタクロースがプレゼントを配る時のプレゼント入れのような大きな白い袋にいれ、ガチャッ、ガチャッと音を鳴らしながら退室していった。


何個持ち込んでんだ…


その間も私たちはほぼ何も喋らず、少し経ってからサンアンドムーンの男がまた女を「大丈夫。楽しもう!楽しもう!」と慰める声だけが響いた。


「なんだかみんな緊張してるから俺まで緊張してきちゃったよ」

これみよがしにプロ感を出してくるサマーウォークのモヒカン。ウザい。


「それでは次のグループの皆さん、舞台袖に移動してください」


①サマーウォーク②ヒットエンドラン③サンアンドムーン④クリスチャンズ

私達は演目順に整列した。

この瞬間になると、サンアンドムーンだけでなく、他の3組もお互いの相方に「大丈夫。大丈夫だから」と声を掛けていた。


緊張が高まる。


「それじゃあ1組目の方、合図がありましたらセンターマイクの位置までお願いします」


いよいよ始まる。

よく聞く、これから漫才が始まります!と言うような音楽が流れ出した。

舞台袖のスタッフの手が上がる。

ついにサマーウォークが、センターマイクへと飛び出していった。

×××


「いやーこいつ北斗の拳のザコみたいな顔してるでしょ?」

「おいやめろよ。そんなことねえから!ケヒヒッ!イッヒッヒ!」

「ほら笑い方!」

よし勝った。

どうしたプロ。なんだその低いレベルのネタは。

無観客でリアクションがないのは当然だがそれでもサマーウォークはスベっていた。

よしよしよし。

思わぬ嫌悪相手のブレーキは確実に私にも丸島にも追い風になっていた。

ネタが終わると今度はヒットエンドランが飛び出していく。

「俺将来は大きな北川景子と同棲したいんだ」

「え?大きな北川景子?どんな感じ?」

「おかえりー!景子!ベリベリべリッ!あー!ちょっと動いただけで壁紙が裂けたー!!」


なんだそのネタは!
哲学的にも程がある。勝った。


「どうもーサンアンドムーンです!よろしくお願いします!」

「私こう見えて声が綺麗なので、ウグイス嬢とかになりたいんだ」

「いいねー!じゃあさっそくやってみなよ」

「1番…レフト…神田くん」

「いいねいいね」

「2番…セカンド…大塚くん」

「いいねいいね」

「3番…ファースト…高田馬場くん」

「え?高田馬場?それって山手線の駅名じゃなーい!?」

「4番…キャッチャー…新大久保」

「いや新大久保にもくんつけてやれよ!」


す、すごいネタだ。
完全に勝った。


ネタの出来でこの3組に勝っているのは間違いない。そうなると後は自分たちとの闘いだ。

もう私と丸島は一言も喋らなかった。


お互いに集中しきっていた。


あまりにも短く、あまりにも長い時間が流れる。


「どうもありがとうございました!」


サンアンドムーンが舞台を降りる。

すぐに音楽が流れ出す。

「頑張りましょう!」

私達はどちらからともなく、固く握手をした。

音楽が佳境に差し掛かる。

そして、スタッフの手が上がった。


私達は、スポットライトの下、センターマイクの前へ

勢いよく走り出していった。

×××


『面白いんだけどなー。えー。これ面白いよちゃんと』

私達が会場入り前に練習で撮影した動画を観て、勅使川原里菜はそう言った。

「でも面白くなかったってことなんだよ」

『うーん。面白いんだけどな。残念。惜しかったはずだよきっと』

「ねえテッシー。もう俺のメンタルはボッロボロなわけだけど、ワクワクしてくれたかな?」

『かなりワクワクしたよ!私が楽しんじゃった。なるほどね。松岡くんが言ってることがよくわかるよ』

「俺が言ってることって?」

『"人生は勝負したほうが面白いに決まってる"』


出番を終え一息つく私達の下を訪れたのは、なんとあのいちご倶楽部だった。

「お疲れ様でした。めちゃくちゃ面白かったです!」

「え!ありがとうございます!光栄です。いちご倶楽部さんはこれからですよね?」

「そうです。緊張します…」

「大成功で終わるよう、心から祈ってます」


このやりとりの後、相方の丸島は
「俺たちもいちご倶楽部さんも受かればいいな」と言っていた。

青春だなーと私は思った。

だが残念なことに私達の結果欄に、いちご倶楽部さんの結果欄に、そしてサマーウォーク、ヒットエンドラン、サンアンドムーンの結果欄に記載されていた文字は

【敗退】

だった。

言葉にならなかった。

完璧な出来栄え、手応え。

やるべきことをやりきった上で確信に近い一回戦突破の自信があった。

むしろ落ちる理由が見当たらなかった。


放心状態から解けてすぐに、今度は底知れぬ悔しさが襲ってきた。


「勝てると思ったからこれだけ悔しいんだよ。2人ともこれだけ悔しがることができた。それだけのことをしたんだよ俺たちは」

そう言う丸島に「そうですね」と力無く返答をしたが、はっきりわかるほど私達2人はその理屈に納得なんかできていなかった。


悔しい。

それ以外の感情が湧かない。

『残念会しようね。飲みにいこうよ』

「えー。してくれるの?」

『もちろんだよ。頑張ったし』

「うわー少しだけテンションがあがった」

『でも好きなことしていいっていうご褒美は無しね』

「えーなんで・・・頑張ったからそこをなんとか・・・」

『ダメです』

「なんで?」

『それが“勝負”ってもんでしょ?』

完璧だって届かない。

どれだけ頑張ったって届かない。

勝負事に運なんてものはない。

あるのは必然だけだ。

そしてその必然を、私は掴めなかったのだ。






…今年は、な。






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