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敬語・新聞の表記・読めない名前のこと

「忘れ物はございませんか?」。ねーよ!
 この質問がおかしいことに気付かない日本人のなんと多いことか。(森田美由紀風)
 「ございます」は本来謙譲語だったはず。相手の行為について使うのは誤用である。けれどももう「ございます」は単に丁寧語として認知されつつある。
 私だって妙ちきりんな言葉を発することもあるし、別に敬語警察ではない。けれども、イラつくのは私だけ? 既にして日本語における丁寧語・尊敬語・謙譲語の区別など無くなっている。ら抜きなんて、皆さん、もうどうでもよくて。というか、これは言語学的に許容できる変化だそうで。いくらいまだに字幕では「ら入れ」に訂正していても、もうこの流れは止められないだろう。と学者達も思っているらしい。敬語との差別化が図れるからだそうだ。敬語としてら抜きを使っていないなら、もう許す。「食べれる」と言えば、言っている当人としては可能の意味だろう。「食べられる」は、丁寧語のみに使うとすればよい。確かに理に適っているような。
 しかしな、自分で「私が召し上がったとき」なんてのは、やっぱ嫌だよ。
 それから「やめろー!」と言いたくなるのは、子供が親について人前(テレビで)で「お母さんとお父さんにありがとうと言いたいです」とか言うやつ。「母」「父」じゃねえの? 今やアイドルとも言えない若いノータリンそうな女子だけじゃない。いい年した社会人も人前で「お父さん」「お母さん」とか言いやがるよね。街頭インタビューとか。友達同士で「今日うちのお母さんが――」はまあいいさ。逆にここで「母が」とか言ったら、えっらく他人行儀だろうし。でも、私は大学生である留学生に対応する仕事をしていた時、奨学金の面接などでは「絶対にお父さん、お母さんと言うな。私の父・私の母だ」と知恵をつけていた。ある一定年齢以上の日本人の大人なら、この子はちゃんとした日本語を教わっている、と評価してくれると思っていた。最早、そうじゃないのか? 
 そう、言葉は生き物で、常識も変化する。分かってますよ。でもねぇ――という高齢者がうじゃうじゃいることでしょう。慣れ親しんだ「正論」からは外れられないものです。しかも、正しいと教えられたことを多く知っていることが「えらい」と誉められた身には、それを変えたくないプライドがあるんですよねぇ。笑っちゃうでしょうけど。
 「重複」の「ちょうふく」も「じゅうふく」は嫌だし、「相殺」も「そうさい」です。「発疹」は「ほっしん」にして「はっしん」に非ず! NHKでも「どちらも可」となった読みは多いようだが、最近のアナウンサーの下手くそ加減を差し引いても(何でそんなに原稿を読むのに噛むんだよ。鬱陶しい。プロだろうが! というの、多数。もうただのタレントみたいな局アナ、いっぱいだものね。それを求めているんだろうけれど、ニュースをちゃんと読むより)、そんな言葉使うな! と画面を睨む。
 乱暴な言葉遣いについては、こちとら人後に落ちないため、文句もない。しかし、あまりな略語は、隠語すぎて困る。若者言葉で括り切れない。ネット語も。追いつけましぇーん! 妙に知ったかぶりして使おうものなら、無理しちゃって、ということになる。それが今現在の「ちょうふく」であり「そうさい」「ほっしん」なんでしょう。
 ついでに、外国語に関して。それらは外来語として、そもそも和語化する。そのくせ、正しい発音が何たらとか言い募る。大学入試などで出る「単語のストレスがどこにあるか」問題など、あっほ臭さ、と思うが。そんなことを気にするくせに、「award(賞)」はいつから「アワード」になったのだ? 「アウォード」って言ってたよね、かつては。

 新聞の表記も変わった。
 縦書きにアラビや数字、文頭文末の禁則処理をしない。「々」や音引きの「ー」が行の頭にきても全然平気。「?」「!」の後、1マス空けない。気味悪ぅ。まあ、これは紙面製作をDTP(デスク・トップ・パブリッシング)にしてからだろうか。ただ割り付けしたフォーマット画面に文字を流し込む。字詰めなんて気にしないに違いない。
 新聞記者は、文学者ではないので、紋切りの定型比喩を使うようにと指導されるらしいが、「バケツを引っ繰り返したような雨」とか「眉をひそめた」「肩を落とした」「唇を噛んだ」など頻出する。そりゃ確かに一流教養人を対象にしているつもりでも、新聞読者は一般大衆ということになっている。「分かりやすく」が掛け声なのだ。とは言え、ねえ……。
 書名は『』だったと思うが、社にもよるだろうが「」にしているところもある。
 そうですか、そうですか――。

 ついでにもう、「10代の子供の名前は読めない!」件。甲子園球児の下の名前なんて、何じゃありゃ……。けれども世につれ人につれ、国語審議会だか文科省だか文化庁だかも考えを新たにしたのか、「光宙」で「ピカチュウ」と読んでもいいとな! 名前に使える漢字が増加し、完全に当て字と思われる場合も、許容範囲がかなり広がる。
 もうそんなら、絶対に振り仮名付きで書くことにしたらどうだ。読んでもらってこそ、名前だろうが。

©Anne KITAE

 などと、イライラを募らせる日々だが、まあ落ち着いて考えれば、日本の地名なんてのも、特に地方に行けば、全然読めやしない。少なくとも常識の漢字力では。いつか「弘前」を「ひろまえ」と読んだ奴を「ばっかじゃないの、県庁所在地だよ?」(違います。)などと詰って教養不足と断じたが、まあ、これくらいは知っていてくれよ、だとしても、日本国中「そんなもん読めるわけないじゃん」という地名だらけだ。しかも音読み訓読みの法則もろくすっぽない。訓だけでも何通りも可能だし。
 アイヌ語源の北海道内地名はともかく、などと思っていたら青森県の恐山もアイヌ語の宇曽利(うそり)が訛ったとか、かつての北海道東北文化圏は、今の我々が表層だけ知っているのとは全く異界だったのだろう。(研究も進んではいるが、そんなに一般化された知識ではない。)
 同じく完全に文化圏が別系統の沖縄は当然だが、九州も読めないよ――。地元の人には一般知だろうかが、ひょっと旅行に行ったくらいでは、駅名なんて、あなた……。Wikiでも引けば、「読みにくい地名」はどっちゃり載っている。(九州だけではない。)

©Anne KITAE

 以上を鑑みて、本邦の漢字文化なんてそんなものなのだ、とやや諦める気持ちもあるのだ。「知っている」か「知らない」か。それだけ。だから、言語として整備が行き届いていないなどと、26文字しか使わない文化圏からは冷笑される。

 ああ、日本語――この面倒なもの。
 いいじゃありませんか?


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