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「だめ」の話

今日が「だめ」の始まりの日なのでは

フリーランスのコピーライターとして仕事をするようになって、この3月末で丸15年になる。
当たり前だけど、年齢と共に仕事の質も変わって来た。おかげで、一時期のように寝る間も惜しんでがむしゃらに仕事することも減ったし、今日は急ぎの仕事もないなと思えば、真昼間に映画館に行ったり、夕方早めから飲みに行ったりもする。

それはそれで悪くはないんだけど、たまにふと我に返ったときに、「おれはもしかすると、このままだめになってしまうんじゃないだろうか」と思うことがある。
もしかすると今日が、自分の「だめ」の始まりなのではないか、と。

いつか本当に自分が「だめになって」しまったときに、過去を振り返って「ああ・・・あの日、今日は打ち合わせもないし暇だからって映画を見に行って、そのあと飲みに行ったなあ。そういえばあれ以降、一気に仕事も疎かになって、昼間から酒を飲んだりするようになってしまった。そしていまはこのありさま・・・」なんて思うんじゃないだろうか、なんてさ。

たぶん、ぼくは自分が「だめになる」ことがとても怖いのだ。

「だめになったぼく」のイメージ

森田童子の『ぼくたちの失敗』という曲がある。
リリースは1976年だが、1993年にテレビドラマ『高校教師』の主題歌として使われたことでリバイバルヒットしたので、それで知った人も多いでしょうね。

ぼくは、この曲がとても怖い。
何が怖いのかというと、歌詞が怖いのだ。

この曲の後半に
「だめになったぼくを見て/君もびっくりしただろう」
という歌詞があるでしょ。
繊細なピアノの響きに乗って、この「だめになったぼく」というフレーズを囁くように歌う森田童子のボーカルが流れてくると、もう悪夢のようで。

みなさんは、「だめになったぼく」っていう歌詞から、どんな状態の「ぼく」を想像するんだろうか。
仕事をクビになって路頭に迷っている「ぼく」?
酒や薬に溺れ廃人みたいになっちゃった「ぼく」?
ギャンブルにはまって借金で首が回らなくなった「ぼく」?
若き日の夢を諦めきれないまま腐っていく「ぼく」?
事業に失敗して自己破産するしかなくなった「ぼく」?

「だめ」になることへの恐れと憧れ

人によって思い描く「だめになったぼく」の姿はさまざまだと思うが、ぼくがイメージするのは、太宰治『人間失格』の主人公・葉三の物語後半みたいな感じ。
プライドと同じだけの重さの劣等感を抱えて、上っ面だけの処世術と虚勢を武器にしながら、上手くやっているように見えて、実は何ひとつ上手くなんかできなくて、何もかも分かったような顔をしていながら、実は何ひとつ分かってなんかいなくて、周りの人間の顔色を窺いながら、彼らに利用され、そしてスポイルされながらどんどん堕ちていく。堕ちた果ての底でも、まだ甘えながら、甘やかされながら、朽ちていく自分を薄笑いを浮かべて眺めるぐらいしかやることがない。
それが、ぼくがイメージする「だめになったぼく」の姿なんだよな。

そんな風に「だめ」になってしまうことに対して強烈な恐れを感じている反面、厄介なのは、そういう挫折や堕落に対する漠然とした憧れのようなものが自分の中にある(のではないか)。そんなことを考えてしまうのだ。

さほど真面目に生きているわけでもないし、清廉潔白な聖人君子のような人間とは程遠い。しかし、だからこそ、自分の中にある中二病的な何かに「人生なんて所詮ただの暇つぶしだろ。無駄な足掻きはやめて、さっさと堕ちてしまえよ」と誘惑されたら、容易く流されて「だめ」になってしまうのではないかと思ったりするのだ。

実は「だめ」になるって難しいのでは?

でもさ、「だめ」になるっていうのは、実はけっこう難しいことなんじゃないかと最近思ったりもする。

「だめになったぼく」というと、欲望の赴くままに自堕落に生き、その末に身を滅ぼしちゃいました、みたいな姿を想像してしまうけど、それはむしろダークサイドに堕ちたアナキンみたいなもので、案外ぜんぜん「だめ」になってないんだ。ダークサイドとしてやっていくためには、努力も必要だしいろいろがんばらなきゃいけないからね。
欲望に忠実に生きるには、多大な努力が必要なのである。

本当の「だめになったぼく」っていうのはそんなのじゃなくて、もっと空っぽなんだと思う。すっからかん。空っぽ。
自分自身を諦め、自分と関わる全てを諦め、どんな些細な希望もすべて捨ててただ終わりを待つだけ。そこにはもはや絶望さえもない。絶望なんてのは、希望の産物だもんね。

つまり、「だめになったぼく」として生きていくためには、いろんなことに対する希望をすべて手放してしまわないと無理だろう。
そんなこと、できるか? そんな生き方、普通は恐ろしくてできないよ。

希望を捨てる、というのは言い換えれば「欲を捨てる」ことだと思う。まるでストイックな修行僧のようだ。
そういう見方をすれば、「だめになったぼく」の姿というのは、ある種の宗教的な悟りの境地にも似ているようにさえ思う。

だとしたら、ぼくはたぶん「だめになったぼく」になることはないだろう。歳とともに単純な物欲はずいぶんなくなったように思うけど、なんだかんだいってもまだまだ欲にまみれているしなあ。
というわけで、ダラダラと書いてきたけど、「だめ」になるのは思いのほか大変そうだし、なによりも自分に「だめ」の始まりの日は永遠に訪れないことが分かったので、安心してこれからも真昼間に映画を観に行ったり飲みに行ったりしようと思う。

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