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ふつうってふつうにむずい。

20240715 みんてつ#8
開催記録


朝、背中の痛みともに起きる。

昨日はケンカしてふて寝。床で寝るべきではなかったかもしれない。

ぐだぐだしながら、9:00。この後どうするか考える。みんてつは14:00から。ふむ。何しよう。

ここ数回のみんてつは時間までカフェやファミレスで過ごしていた。

今回もそうなるかと思いきや、同じ北区だしあえて出ることもない。お家でパスタとサラダを食し、少し休んで、いざみんてつへ

今回で8回目のみんてつ。やり方には慣れてきたけど、色々とアップデートも加えつつ。

今回は
場所:なかまちBase
テーマ:ふつうってなんだろう?

なかまちBaseでの開催は3回目。
来るたびにアップデートされていく館内。いつも快く受け入れてくださる小林副テンチョー。ありがたい限り。

定刻を若干過ぎて、スタート。
まずはチェックインを済ませて、問い出しへ。

たった5分ながら実にたくさんの問いが出た。どれも興味深い。

今回の問いたち。この後、問いボックスに収納。

これまでは10分の問い出しの後、スタートの問いを決めていたが、前回の反省からアップデート。

スタートの問いをあえて決めずに、テーマの「ふつうってなんだろう」に立ち戻って、対話を始める。



ふつうって言葉が嫌い。
ふつうじゃないことを幼いうちに認識した。
社会はふつうを押し付けてくる。
学校はふつうを洗脳する場所。
キリン人間とゴキブリ人間。
異常だから楽しいのか、そもそもふつうなんてないのか。

下が余っちゃったのはご愛嬌。大きいようで小さい模造紙。書き始めの文字の大きさにいつも迷う。

1時間の対話があっという間に進む。まだまだ言い足りないところで、タイムアップ。このモヤモヤがまた心地よい。

終わった後も参加者同士の自然な交流の場が生まれ、なかまちBaseに新テンチョー、新イベントの誕生の瞬間も。

みんてつが始まるまでは、初めましての参加者様も、終わる頃にはいい感じに打ち解けて、ちょっと深い話ができたり。

みんてつを通して、心地よい空間になってたら、なによりだなーと思う主催者その①。

次回のみんてつは、8/24(土)赤沢ミナトテラスにて開催予定。詳細は、みんてつのインスタアカウントからチェックしてくださいませませ。




とはいえ、ここで終わると、さすがになんのみやげ話にもならない。

哲学対話では、対話後のモヤモヤや新たな疑問を持ち帰り、さらなる自己対話の機会にしてほしいとの思いから、「おみやげ」と表現する。

このマガジン、「みんてつのみやげ話」では、主催者①と②の頭の中を、読んでくださる皆様向けに、少し言語化してみる。

今回は主催者①の頭の中。

そもそもふつうって何か。

「多数派と同じ属性」をもつこと、なんじゃないかと結局思う。

つまり、すげー相対的なもの。しかも、その状況や環境によってそれも変わる。

極端な話、性別においても、世界人口約80億人のうち、50.数%は男性。つまり、世界規模で見れば、性別のふつうは男性。

でも、日本においては、1億数千万人のうち、女性が少し多い。つまり、日本では女性の方がふつう。

性別で考えれば、「ふつう」の違和感に感じるのは容易だ。

なのに、社会の中では、「ふつう」なことが正義であるように扱われる場合が多い。

ふつうにしなよ。みんなと同じにいなきゃ。自分だけ変なのかな。

こんな言葉の呪縛で多くの人が苦しんでいるのかもしれない。

自分のことを考えてみると、たぶん変な部類だと思う。ましてや、教員という職種につきながらも、おそらく不適格だろうなーと思う。

大学の時に、何度お前は教員になってはいけないと言われたことか。

でも、これって、「教員」へのイメージが生み出した虚構に過ぎない。

先生は誠実であるべき。先生は運動ができるべき。先生は優しい人であるべき、、、

べきべきの言葉。これを「ふつう」って捉えるとすごくしんどくなるんだろうな。

やっぱり「ふつう」って言葉はいらないのかもしれない。

今や芸人という枠を超えた、タレント?中田敦彦が言っていた、「優れるな、異なれ」。

誰かと比べるからしんどくなる。誰かと同じ、つまり「ふつう」の中で勝負をするからつらい。そうではなく、自分にしかないものを目指す。自分でしかできないことをする。

何かと比べるという相対的な物差しを捨て、自分のだけの絶対的な価値をつくっていく。

それに気付けることってすごい大切なんだな。

とはいえ、今回の参加の皆様は、ある意味で「異なった」人たちだったと思う。

ある方は、ご自身が社会不適合者だと言っていた。ある方は、ご自身が周りと違うことに、小さい時に気付き、今では多数派の意見すらもなんとなく読めるという。
ある方は、俺は異常の中の異常だという。

でも、社会の中で生きている。
「ふつう」という呪縛の中で、「異なる」彼らは生き苦しさも感じているのかもしれないが、とても輝いていた。

そう考えると、時代の革命児は、すべからく「ふつう」ではない。

天文学者 コペルニクスは、当時主流だった「天動説」を大きく覆し、「地動説」を唱えた。
天才発明家 エジソンは、学校教育に馴染めず、教師から「君の頭は腐っている」とまで言われたらしい。
南アフリカの元大統領 ネルソン・マンデラは、アパルトヘイトに反対し27年間もの獄中生活を送った末に、釈放。のちに、黒人初の大統領となる。

世界を変えてきたのは、「ふつう」ではない人たち。

でも、もう一度立ち返る。そもそも「ふつう」って存在するのか。

よく言う、十人十色。みんな違ってみんないい。三者三様。千差万別。

あるカテゴリーでくくることで、人は多数派と少数派に分かれる。しかしながら、そのカテゴリーは恣意的に設けられたものであり、その人の全てではない。

つまり、そのカテゴリーを設けずに、人としてくくれば、誰1人として多数派も少数派も存在しない。つまり、「ふつう」という概念ごと消滅する。

すべての人を、色眼鏡をかけず、その人として見ることで、「ふつう」も「へん」も存在しない。

ただその人であるということのみが存在する。優しい人ではないかもしれない。箸の持ち方が下手くそかもしれない。犬も猫も嫌いかもしれない。

でもその人はその人。ただその人であることに変わりはない。

すべての人は尊重される。

やっぱ「ふつう」っていらないのかも。

でも、なんかまだまだもどかしい。「ふつう」がなくなったら、「ふつう」がないことが「ふつう」になるのか?「ふつう」って言葉は残り続けるのか?

ふつうってふつうにむずい。

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