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梅の花に寄せて

ふと、「残りの人生で【何冊読んでもいいけど、1回ずつしか読めない】のと【何回読んでもいいけど、自分で選んだ100冊しか読めない】を選ばないといけないとしたらどちらを選ぶべきか」という疑問というのも憚られるようなしょうもない問いが脳裏に浮かんだ。

私は普段から以前読んだ本を改めて読むことが多い。小学校中学年のころ、ハリー・ポッターシリーズを繰り返し繰り返し繰り返し……読みすぎて急速に目が悪くなり、母から「家用にハリー・ポッターの本は絶対に買わない」という方針が打ち出された逸話もある(結局母が根負けして謎のプリンスから予約してくれるようになり、最終的には文庫本サイズも混えつつ全巻揃えてくれた。ありがたや)(なお、ハリー・ポッターのせいで視力が低下したという言い分には今でも納得していない。遺伝だ)。

若干話が逸れたが、つまり何が言いたいかというと、私は人生の3分の2近くを再読大好き人間として生きているのだ。ここは【何回読んでもいいけど、自分で選んだ100冊しか読めない】を選ぶべきだろう。角田光代さんのエッセイも、岡田光世さんのニューヨークの魔法シリーズも、万城目学さんのあれやこれやも、もう読めないなんて辛すぎる、耐えられない。今50冊お気に入りを選んで、徐々に追加して厳選した本だけを読んで過ごすのがいいじゃないか。

とここまで考えて、本当にそれでいいのか?という思いが湧き立った。

昨日だって米原万里さんの『心臓に毛が生えている理由』を読みながら、どれだけ無知かを思い知り、気付きや着想(そんな立派なものではないな)を得たばかりではないか。太宰治の『正義と微笑』を読んで「カルチュア」についてnoteを書こうとか、1年前だったら思いもしなかった心算までしている(太宰治は太宰治「さん」という感じがしない。太宰治は太宰治だ)。見たことのない、感じたことのない、これからも触れることのないであろう世界の存在を知り続けるためにも、【何冊読んでもいいけど、1回ずつしか読めない】を私は選ぶべきだ。

それに。special oneを1回しか読めないのは切ないものがあるけれど、私は【何回でも読める】という思いを持っているがゆえにその1回を「真剣に」読んでいないのかもしれない。【1回しか読めない】と思えば、その1回をより丁寧に大事に読むだろう。よかったところや感じたことをできる限り書き留めるだろう。書き留めたそれは読み返したときに本の内容だけでなく、読んだときの心境や状況を始め、たくさんのことを思い出させてくれるだろう……。

「残りの人生で【何冊読んでもいいけど、1回ずつしか読めない】のと【何回読んでもいいけど、自分で選んだ100冊しか読めない】を選ばないといけないとしたらどちらを選ぶべきか」

この問いに対する私の答えは、「【何冊読んでもいいけど、1回ずつしか読めない】を選ぶ」で決まりだ。

***

ふと顔を上げると白い花で装った木が見える。1週間前から考えているけれども、これは梅だろうか、それとも桃だろうか。枝ぶりや花の付き方、花弁の形などからすると梅にしか思えないが、咲き始めたころからちらりとも万葉集にも歌われた香りがしない。とすると、これは実は桃なのでは……。

そんなことを考えながら月夜の道を歩いていると、柔らかな風に乗って花の香りが届いた。

「ああ、やっぱりこれは梅だったんだ!」

……あまりにも何気ない出来事だが、この出来事をずっと心に留めておきたい、そんな気持ちに駆られた。「人生100年と言えども、あと何回、いやまたこの季節を過ごせるのかも分からないのだから」と。

有象無象のことはさておき、少しでも琴線に触れること、大事なことは【何回かあるうちの1回】ではなく【最初で最後の1回】と思って向き合わなければならない。それがもしその先にまだ何度もあるとしても。

そんなことを思った春の夜だった。

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