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ジャパンウォーズ5 菟狭の出迎え

【神武東征編】エピソード5 菟狭の出迎え


前回は、狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)らの旅立つ前の伝承を紹介させてもらった。

今回から、再び旅の物語を綴っていこうと思う。

激しい潮流の豊予海峡(ほうよかいきょう)こと、速吸之門(はやすいなと)を椎根津彦(しいねつひこ) (以下、シイネツ)の案内で見事突破した天孫一行。

そして、筑紫(つくし)の国の菟狭(うさ)に辿り着いた。

現在の大分県宇佐市(うさし)といわれている。

菟狭への道

ここで、筋肉隆々の家来、日臣命(ひのおみ・のみこと)と、サノの妃、興世姫(おきよひめ)が解説を始めた。

日臣(ひのおみ)「ちなみに『古事記(こじき)』では、豊国(とよくに)の宇沙と表記されちょるじ。筑紫っちゅうんわ、今の九州全体を差す言葉や。そんで、豊国っちゅうんわ、今の大分県のあたりを差す言葉やじ。」

興世(おきよ)「補足説明すると、豊国は、のちに豊前(ぶぜん)と豊後(ぶんご)に分かれるまする。これはもう少し先の話・・・奈良時代のことですね。」

話を戻そう。

菟狭では、サノたちを驚かす状況が発生していた。

人だかりができていたのである。

それは、天孫一行をお迎えする人たちであった。

この地の長である、菟狭津彦(うさつひこ) (以下、ウサ夫)が代表して挨拶してきた。

ウサ夫「ようこそ菟狭へ! 御一行の到着を今か、今かと待っておりましたに。途中で高千穂の話に戻られましたけん、どうなることかと、ヒヤヒヤしておりましたぞ。」

サノ「心配かけてすまなかった。されど、なぜ、我らを歓待(かんたい)してくれるのじゃ?」

ウサ夫「我らと高千穂(たかちほ)は、ずっと昔から、交流があるんやけん、当然のことっちゃ。」

サノ「まこっちゃ(本当に)?」

ウサ夫「さしより(とりあえず)、説明するっちゃ。宇佐市には、九州最古といわれる古墳があるんじゃけんど、副葬品に大和(やまと)の鏡や装身具がたくさん出てるっちゃ。昔から交流があった証拠やに。それに、ここは高千穂と瀬戸内を結ぶ玄関みたいなところっちゃ。東征(とうせい)の前から交流していてもおかしくない土地やに。」

サノ「なるほど。それは一理あるな・・・。」

ここで、小柄で目立たない、家来の剣根(つるぎね)と、弟の五十手美(いそてみ) (以下、イソ)が解説を始めた。

剣根(つるぎね)「菟狭の人々が出迎え、天孫一行が船を停泊させた地は、柁鼻(かじはな)であるという伝承がありますぞ。宇佐市和気(わけ)の小高い丘に鎮座する、柁鼻神社(かじはなじんじゃ)の由緒書によるものです。」

イソ「鼻とは、海に突き出した岬のようなところという意味で、ここに船をつなぎ止め、我々は上陸したんでしょうな。ちなみに、柁鼻神社には、我(わ)が君(きみ)と御父君(ごふくん)の、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあぜず・のみこと)・・・それから、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)が祀(まつ)られておりますぞ。」

柁鼻神社4
柁鼻神社3
柁鼻神社2
柁鼻神社1
柁鼻神社鳥居
柁鼻神社拝殿

ここで、二人の人物が食いついてきた。

次兄の稲飯命(いなひ・のみこと)と三兄の三毛入野命(みけいりの・のみこと) (以下、ミケ)である。

稲飯(いなひ)「なして(なぜ)、わしは祀られてないんや。」

ミケ「それを言うなら、わしもやじ。一緒に旅立ったのに、不公平っちゃ。」

すると、サノの息子、手研耳命(たぎしみみ・のみこと) (以下、タギシ)が、二人の伯父(おじ)をたしなめた。

タギシ「伯父上、仕方ありませぬ。誰を祀るかは、地元の人々が決めるもの・・・。こちらがとやかく言うことではありませぬぞ。」

稲飯(いなひ)「タギシよ。汝(いまし)は、それで良いのか?」

タギシ「父上が祀られているだけで、充分にござりまする。」

ミケ「流石(さすが)は、我(わ)が甥(おい)っちゃ。」

伯父と甥のやり取りの傍で、菟狭津彦(うさつひこ)は、サノに、こう語った。

ウサ夫「御一行のため、宿泊地となる宮(みや)を建造致しました。ゆっくりしていってくださいませ。」

サノ「宮と申(もう)されたか?」

ウサ夫「左様(さよう)。その名も、足一騰宮(あしひとつあがり・のみや)っちゃ。」

ここで、天道根命(あまのみちね・のみこと) (以下、ミチネ)と息子の比古麻(ひこま)が解説を始めた。

ミチネ「柱一本を階段のようにして使った建物とも、屋根を一本の柱で支えた建物ともいわれておりまするぞ。」

比古麻(ひこま)「また、川か海の中に片側を入れ。もう一方を岸にかけて構えられた宮ではないかとの説もあるようです。」

サノ「要するに、よく分からんのじゃな。」

ウサ夫「答えは、我々だけが知っちょるということですな。詳細を語りましょうか?」

サノ「やめておこう。人々からロマンを奪ってはならぬ。」

比古麻(ひこま)「しかし、宮の場所については、説明しておいた方が良いでしょうね。」

ミケ「場所とは、どういうことね?」

比古麻(ひこま)「この宮があったとされる場所なのですが、宇佐市内に三つもあるのです。」

稲飯(いなひ)「三つも?!」

剣根(つるぎね)「まず一つ目が、弥勒寺(みろくじ)の跡地付近にありますぞ。騰隈(とうのくま)と呼ばれる地で、宮を顕彰(けんしょう)する石碑が立てられております。」

騰隈顕彰碑

ミチネ「弥勒寺とは、かつて宇佐神宮(うさじんぐう)の境内にあった寺のことですな?」

剣根(つるぎね)「その通り! ちなみに、宇佐神宮とは、全国にある八幡神社(はちまんじんじゃ)の総本宮(そうほんぐう)で、我々が訪れた時には、まだ存在しておりませぬぞ。」

サノ「どういうことじゃ?」

剣根(つるぎね)「八幡神は、第十五代、応神天皇(おうじんてんのう)のことですから、我々の時代に有るわけがないのです。あと、近くには椎根津彦神社(しいねつひこじんじゃ)もありますぞ。椎根津彦殿を祀った神社ですな。」

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宇佐神宮と柁鼻神社
宇佐神宮と椎根津彦神社

イソ「二つ目は、宇佐市安心院町(あじむちょう)にある、妻垣神社(つまがけじんじゃ)ですぞ。同神社には、下記のような由緒が語り継がれておりまする。」

<宇佐に立ち寄った神武天皇(じんむてんのう)は、安心院盆地(あじむぼんち)の美しい風景に感動し、母であるタマヨリビメの魂を祭るため祭祀を行った。すると、川の中の岩にタマヨリビメの魂が現れ、山の上へ舞い上がって山中の巨石に降臨した。神武天皇は、この石を足一騰宮と名付けた。>

妻垣神社4
妻垣神社3
妻垣神社2
妻垣神社1
妻垣神社社門
妻垣神社拝殿
妻垣神社由緒記

サノ「母上が関与しておるのか?」

イソ「そのようですな。御母堂(ごぼどう)の玉依姫(たまよりびめ)が降臨した巨石は、妻垣神社の社殿から、数百メートル離れた共鑰山(ともかぎやま)の八合目あたりに祀られておりまする。苔に覆われた石で、これが同神社の上宮で、社殿が下宮となっておりまする。」

共鑰山
妻垣神社宮跡説明板
妻垣神社(磐座)
妻垣神社(岩)
妻垣神社(共鑰山説明板)

ここで、菟狭津彦(うさつひこ)が噛みついてきた。

ウサ夫「しばし、お待ちくだされ! うちらが建造した宮殿ですぞ。それが、なして(なぜ)、サノ様が作ったことになってるんや? そ・・・それも石が宮とは・・・どういうことやに。」

日臣(ひのおみ)「菟狭津彦殿・・・仕方なか。そういう伝承もあるっちゅうことで、ここは勘弁してくんない(ください)。」

ウサ夫「納得いかん! はげらしかぁ(むかつく)! 一生懸命建てたんや! かなりの出費やったに! 菟狭の民、総出(そうで)で作ったんやに!」

サノ「そんなことを言われても・・・。」

比古麻(ひこま)「玉依姫は海の神、大綿津見神(おおわたつみ・のかみ)の娘です。高千穂と菟狭をつなぐ海が、幾久(いくひさ)しく平穏であるようにとの想いで、祀られたのではないでしょうかね。」

ウサ夫「そういうことにしておきましょう。がさご(うるさい子供)みてえに、ねじきい(しつこく)言って、申し訳ないっちゃ。」

サノ「いっちゃが、いっちゃが(いいよ、いいよ)。済んだことぞ。」

興世(おきよ)「三つ目は、妻垣神社と宇佐神宮の中間に位置する、和尚山(かしょうざん)です。ちなみに、安心院には、海神社(うみじんじゃ)もありまする。この神社には、我が君の御母堂、玉依姫と祖母の豊玉姫(とよたまびめ)が祀られております。12月~1月末まで鳥居型のイルミネーションをやっているようですよ。」

和尚山4
和尚山3
和尚山2
和尚山1
和尚山石碑
和尚山説明版
海神社
海神社鳥居
海神社拝殿
海神社イルミ1
海神社イルミ2

ミチネ「ちなみに、豊玉姫と玉依姫は姉妹でもあり、どちらも海神の娘にござりまする。この地の人々が、海上交通の平穏無事を祈願して、海神社を創建したのでしょうな。」

稲飯(いなひ)「伝承が残る三つの地は、どれも内陸部にあるが、菟狭の地が、海上交通の要衝であったことを如実に表しておるようやな。」

比古麻(ひこま)「最後に、妻垣神社のある安心院盆地に魅了された作家がいるので、紹介しておきましょう。」

ウサ夫「作家?」

比古麻(ひこま)「作家の名は松本清張(まつもと・せいちょう)。まだ新聞記者だった時、古代史に興味を抱き、休日を利用して各地を旅していたそうです。安心院に初めて訪れたのは1942年(昭和17年)。以来、たびたび安心院を訪ね、妻垣神社の上宮にも詣でております。」

松本清張

このときの見聞は『陸行水行』や『西海道談綺』などの作品に綴られている。天孫一行ゆかりの地は、巨匠の琴線に触れる、魅力あふれる土地だったのであろう。

西海道談綺
陸行水行


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