ジャパンウォーズ2 出航前夜
【神武東征編】エピソード2 出航前夜
手研耳命(たぎしみみ・のみこと)の説明が終わったところで、狭野尊(さの・みこと) (以下、サノ)は、末席に坐(すわ)る白髪の老人に声をかけた。
サノ「天道根(あまのみちね)よ。汝(いまし)には、別の命を与えたいと思うておる。」
唐突に声をかけられた天道根命(あまのみちね・のみこと) (以下、ミチネ)が、慌てて返答する。
ミチネ「何事にござりましょうや?」
サノ「汝(いまし)が祀(まつ)っている、二つの鏡のことじゃ。」
ミチネ「日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)ですな。」
ここで、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)が尋ねてきた。
イツセ「天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸隠れ(いわとがくれ)をなされた折、石凝姥(いしこりどめ)が鋳造(ちゅうぞう)した二つの鏡のことやな?」
サノ「その通りです。御初代、ニニギ尊が降臨(こうりん)の際に持参してより、ミチネが祀っておりまするが、この鏡も遷座(せんざ)したいと思っておるのです。」
ミチネ「遷座ですか? 新たな場所を探せと?」
サノ「そうじゃ。今回の旅路で、良き場所を見つけだせっ!」
ミチネ「しょ・・・承知致しました。ちなみに、我(われ)は『記紀』には登場致しませぬ。悪(あ)しからず・・・。」
サノ「分かっておる。そもそも、この会話が『記紀』には記されておらぬ。気にすることはない。」
ミチネ「では、台本無視の流れで、我が息子も登場させたく存じまするが・・・。」
サノ「うむ。よかろう。」
ここで、ミチネの息子、比古麻(ひこま)が登場した。
比古麻(ひこま)「天道根の息子、比古麻にござりまする。身命を賭す覚悟にござりまする。」
サノ「うむ。親子で、良き地を探し出せ。」
こうして、サノ一行は旅に向けての準備を始めたのであった。
まずは、旅の成功を祈るため、清水が湧く地に赴いている。
なぜ、この地に赴いたのかというと、祈る前に、身を清めるための禊(みそぎ)をおこなわなければならないからである。
この地は、現在、湯之宮神社(ゆのみやじんじゃ)と呼ばれるところで、宮崎県(みやざきけん)新富町(しんとみちょう)にある神社である。
ここに、サノが禊をおこなったという、御浴場之跡がある。
今も、透明度の高い清水が湧いており、近くには、湯風呂(ゆぶろ)という地名も残っている。
さて、ここで禊をおこなったサノは、何気なく、そこにあった梅の枝をついた。
するとどうしたことであろうか。
立派な梅林ができあがった。
現在、座論梅(ざろんばい)と呼ばれている梅林が誕生した瞬間である。
サノ「旅の支度についても『記紀(きき)』には書いていないことを取り上げるのか。」
そのとき、サノの妃の一人、興世姫(おきよひめ)が説明を始めた。
興世(おきよ)「地元の伝承もちゃんと伝えたいという、作者の考えとのことです。それと、座論梅ですが、もとは1株でしたが、21世紀現在では、80株に増えているそうです。」
サノ「それより、なぜ、汝(いまし)がここにおるのか?」
興世(おきよ)「こっそりついて参りました。一緒にお供させていただきまする。」
サノ「吾平津媛(あひらつひめ)や岐須美美(きすみみ)は、知っておるのか?」
興世(おきよ)「皆で語り合って決めました。どうか、お供させてくださりませっ。」
サノ「ここまで来て、女一人で帰らせるわけにもいかぬな。仕方ない。汝(いまし)を連れて行こうぞ。されど、戦(いくさ)が起こる気配があれば、その限りではない。ついて来ること、罷(まか)りならぬぞ。」
興世(おきよ)「承知致しました。かたじけのうござりまする。」
サノ「それで興世よ。なにゆえこれが、座論梅なのか? 坐って議論した記憶はないが・・・。」
興世(おきよ)「そこですが、江戸時代に佐土原藩(さどわら・はん)と高鍋藩(たかなべ・はん)が、梅林の所有権を巡って争った際に、坐して議論したことから、名付けられたそうです。」
こうして、サノら天孫一行は、祈りをおこなうため、海が見える地に移動した。
この地は、現在の鵜戸神社(うどじんじゃ)といわれている。
湯之宮神社から約10キロ離れたところにあり、国土平定を祈願した地として語り継がれている。
今の宮崎県(みやざきけん)高鍋町(たかなべちょう)にある神社である。
祈りが終わったあと、サノは海を眺めながら言った。
サノ「ここは見通しはいいが、入り江がないのか・・・。」
ここで、筋肉隆々の家来、日臣命(ひのおみ・のみこと)が説明を始めた。
日臣(ひのおみ)「入り江がなく、浅瀬(あさせ)が続く海やかい(だから)、航海には向いちょりませんな。二千年後の表現でいうなら、離岸流(りがんりゅう)が激しいっちゅうことですな。」
サノ「では、出航の地は、別のところになるのか?」
日臣(ひのおみ)「そうですな。もう少し北の方に行けば、良かち思うちょります。」
サノ「よし、では、もう少し北に進もうぞ。それに、船の支度に、矢の支度もせねばな・・・。」
日臣(ひのおみ)「船はともかく、矢は必要ですか?」
サノ「時には、弓矢に及ぶこともあるであろう。揃えておいて、損はないはずじゃ。」
現在の宮崎県都農町(つのちょう)に、矢を準備したという伝承を持つ滝がある。
矢研(やとぎ)の滝である。
その名の通り、天孫一行が矢を研いで、出航に備えたという。
日本で唯一、瀑布群(ばくふぐん)が名勝指定されている、尾鈴瀑布群(おすずばくふぐん)の一つで、日本の滝百選にも選ばれている。
滝に見とれながら、サノは言った。
サノ「よいではないか。山深い谷。荘厳な雰囲気。豊富な水量。美しき景観。周りには、矢のもとになる、矢竹もたくさん有る。それに矢じりに適した石もたくさん有る。」
ここで、長兄のイツセが説明を始めた。
イツセ「この地の石は、熱変成によって硬くなり、鋭く割れるんや。古代から狩猟生活が盛んだったようでな。遺跡が続々と見つかり、多くの石鏃(せきぞく)が出土しておる。」
サノ「兄上・・・。その、『せきぞく』とは、何でござろうか?」
イツセ「石製の矢じりということや。都農町は尾鈴山(おすずやま)の東麓の丘陵地帯にある町で、山と海に挟まれた地やじ。食物を得やすい地だったのも、古代から人が定着した理由であろうな。『つのぴょん』については、自分で調べてくれ。」
この地でも、サノら天孫一行は、国土平安、海上平穏、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈念(きねん)したという。
それが、現在の都農神社(つのじんじゃ)であると伝わっている。
矢研の滝で禊をおこなったのであろうか。
次に着手したのは、船の建造であった。
サノら天孫一行は、船を作るのに適した地を発見した。
それは言うまでもなく、良い港が有るという意味でもあった。
宮崎県日向市にある美々津港(みみつこう)がそれであると伝わっている。
サノら天孫一行が出航したので「御津(みつ)」と呼ばれていたのが、美々津と転訛したのだとか。
美々津は、耳川(みみかわ)の河口に位置し、江戸時代には木材集積場として繁栄。
千石船(せんごくぶね)が行き交う港であった。
その当時の名残を留める町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区(じゅうようでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)に指定されている。
美々津(みみつ)の歴史的町並みを守る会が発行している冊子「神武天皇 お舟出ものがたり」において、サノは、こう語っている。
<港はふけーし 大けな木はようけあり、慣れちょる、でくどん(船大工)や かこ(水夫)が ぎょうさんいるし、 むらんもんどみゃ 人間(ひと)がえーもんばっかりじゃ>
サノ自身が、この台詞についての説明を始めた。
サノ「港は深いし、というのは、大きい船も入る良港という意味じゃ。大きな木がたくさん有り、船大工や船漕ぎの人もたくさんいる。それに、この村の人たちは、みんな誠実な人たちばかりではないか・・・という意味じゃ。」
ここで、目のまわりに入れ墨をした家来、大久米命(おおくめ・のみこと)が説明を始めた。
大久米(おおくめ)「美々津のある耳川を少しさかのぼると、広い河原があるんすけど、そこが船を作った場所と伝わってます。現在は、匠ヶ河原(たくみがこら)と呼ばれてますね。この地の木材は、本当に素晴らしく、木炭に至っては、江戸時代に『日向(ひゅうが)美々津(みみつ)の赤樫(あかかし)』とたたえられたそうっす。」
サノ「あかかし?」
大久米(おおくめ)「アカガシとも言う常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)のことっす。堅さが特徴で、船以外の器具にも使われます。農具や車輪、ソリですね。それから木炭。日向木炭は、長く火が保って素晴らしいと、上方商人(かみがたしょうにん)が競って求めたんすよ。」
サノ「なるほど。我らが出航したあと、様々な人が行き交う港になるのか・・・。それで無事の航海を祈るため、港の傍に神社を建てたのじゃな?」
大久米(おおくめ)「さすがは我(わ)が君(きみ)! お目が高い! この神社は立磐神社(たていわじんじゃ)っす。後ろにそびえし、柱のような巨石は、海道の神である塩土老翁(しおつちのおじ)を祀った場所だと言われてますよ。」
サノ「なに? ジイが祀られておるのか?」
大久米(おおくめ)「はい。ジイは、海道の神で、美々津の民は、海上交通安全を祈願してます。」
サノ「そうか・・・。では、ジイを連れてくるべきであったな・・・。」
こうして旅の準備は整ったのであった。
つづく
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