ジャパンウォーズ0.5 高千穂の復習
【神武東征編】エピソード0.5 高千穂の復習
ここで、旅立つ前の狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)のことを説明したいと思う。
と言うのも、旅立つ前にも伝承がいろいろ存在するからである。
まず、台本・・・もとい「記紀(きき)」に書かれているのは、二つの出来事だけである。
15歳で「日嗣(ひつ)ぎの皇子(みこ)」すなわち皇太子になったことと、吾平津媛(あひらつひめ)を娶り、手研耳命(たぎしみみ・のみこと) (以下、タギシ)と岐須美美命(きすみみ・のみこと)が生まれたことである。
ここで、サノの息子、タギシと小柄で目立たない家来の剣根(つるぎね)が解説を始めた。
タギシ「ちなみに、わしが生まれたことは『記紀』に記されているが、妹は『古事記(こじき)』にのみ言及されておる。」
剣根(つるぎね)「宮崎には、他のことも伝わっておりますぞ。まず、驚きなのは、我(わ)が君(きみ)の誕生地にござりまする。なぜ驚きなのかと申しますと、なんと三か所もあるのです。」
サノ「じゃが(そうだ)。分かりやすくするために、列挙してみたぞ。」
その1、宮崎県 宮崎市 佐野原(さのばる)
その2、宮崎県 高千穂町 四皇子峰(しおうじがみね)
その3、宮崎県 高原(たかはる)町 皇子原(おうじばる)
タギシ「他にも、宮崎県日南市(にちなんし)の鵜戸(うど)にも生誕伝説があるそうですが、とりあえず宮崎県の祝典奉賛委員会(しゅくてんほうさんいいんかい)によって顕彰対象となったのは、上記の三か所とのこと・・・。委員会も、甲乙つけがたく、三か所とも聖蹟伝承地として定めたそうです。」
そのとき、剣根の息子、夜麻都俾(やまとべ) (以下、ヤマト)が初登場で解説を始めた。
ヤマト「まずは、その1の佐野原(さのばる)について紹介致しましょう。ここには、佐野原神社(さのばるじんじゃ)があり、敷地内には佐野原聖地(さのばるせいち)と呼ばれる宮殿跡もあります。」
剣根(つるぎね)「この宮殿は、我が君の御父君(ごふくん)、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず・のみこと)の宮殿ですぞ。ここで、我が君を含む四兄弟が生まれたとされておりまする。」
次に解説を始めたのは、サノの次兄、稲飯命(いなひ・のみこと)と三兄、三毛入野命(みけいりの・のみこと) (以下、ミケ)であった。
稲飯(いなひ)「その2の四皇子峰(しおうじがみね)やが、こちらには、槵觸神社(くしふるじんじゃ)が有るっちゃ。天孫降臨(てんそんこうりん)の後、神々が遥拝(ようはい)した場所と伝わる『高天原遥拝所(たかまのはらようはいじょ)』も有るじ。」
ミケ「夜泣き石という、我らの母上、玉依姫(たまよりびめ)のお産にちなむ石というものもある。サノが生まれた時の石だな・・・。夜にうごめいて、村の厄災(やくさい)を伝えたことから、夜泣き石と名付けられたみたいやな。」
稲飯(いなひ)「ちなみに、御神体は、もともと槵觸峰(くしふるのみね)という山で、この山に天孫降臨したという『記紀』の記録もあるっちゃ。」
ミケ「山への信仰は、太古の昔から、おこなわれているものやろうな。」
次に解説を始めたのは、目のまわりに入れ墨をした大久米命(おおくめ・のみこと)と、筋肉隆々の日臣命(ひのおみ・のみこと)であった。
大久米(おおくめ)「その3の皇子原(おうじばる)ですが、こちらは公園になってますよ。その名も皇子原公園(おうじばるこうえん)っす。」
日臣(ひのおみ)「公園内には皇子原神社(おうじばるじんじゃ)があるっちゃ。石段横には、我が君が坐ったという御腰掛石(おこしかけいし)があり、我が君が産湯(うぶゆ)をつかった場所という産湯石(うべし)もあるっちゃ。」
ミケ「近くの湯之元川(ゆのもとがわ)には、母上の玉依姫(たまよりびめ)が諸物を洗い清めた場所とされる血捨之木(ちしゃのき)という地名もあるっちゃ。」
大久米(おおくめ)「それだけじゃないんすよ。皇子原公園の近くには、狭野神社(さのじんじゃ)もあります。こちらの神社の社伝によると、我が君は15歳まで、この地で育ったみたいっすね。」
日臣(ひのおみ)「神社の南方にある御池(みいけ)という火口湖には、四兄弟が泳いで遊んだという皇子港(おうじこう)という伝承地も有るんやじ。」
稲飯(いなひ)「確かに・・・よく泳いだなぁ。」
ヤマト「更におもしろいことに、高原(たかはる)町にも、我が君の御父君、ウガヤフキアエズ様の皇居跡がございます。『宮(みや)の宇都(うと)』という伝承地ですね。ここで四兄弟は、構想を練ったとのこと・・・。」
サノ「高原町には、生誕地以外の伝承も残っておるぞ。」
ミケ「サノの青年時代の伝承やな。町内に馬登(まのぼり)という地名があるが、この地は、サノが住民に見送られた場所だと伝わっておる。ここから東へ行ったところには、鳥井原(とりいばる)という地があり、そちらは住民が見送った場所とされておる。」
ここで、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)も解説に加わった。
イツセ「行き先は、父上のいる鵜戸(うど)だったと伝わっておる。ここには我らの父、ウガヤフキアエズの生誕地とされる、鵜戸神宮(うどじんぐう)があるっちゃ。宮崎県日南市にある神社やじ。父上の皇居跡は、これで三つ目ということになるな。」
ヤマト「この神宮より南へ約10キロのところに、駒宮神社(こまみやじんじゃ)がありますよ。吾平津媛(あひらつひめ)を妻に迎えて住んだ宮跡とされ、ここから、御尊父の元に通ったと伝わっております。ちなみに、こちらの神社も日南市にあります。」
サノ「次は、我(わ)が愛馬の伝承を紹介しようぞ。」
大久米(おおくめ)「ああ、あの龍石(たついし)っすね。」
サノ「じゃが(そうだ)! 我(われ)が舟釣りをした折、龍神(りゅうじん)より賜(たまわ)りし馬じゃ。」
稲飯(いなひ)「駒宮神社には、龍石をつないだ松の跡や、龍石の足跡とサノの足跡が残る駒形石(こまがたいし)が残っておるぞ。」
日臣(ひのおみ)「神社から北に4キロの地には、立石(たついし)という地名があるっちゃ。我が君が龍石を放った場所とされちょる。じゃっどん、なして(なぜ)放ったんです?」
サノ「そのへんは、謎のままにしておこうぞ。人々からロマンを奪ってはならぬ。」
日臣(ひのおみ)「我が君が、そこまでおっしゃるのなら、そう致しましょう。ちなみに、この伝承にからんで、駒宮神社は、宮崎県の結婚風習である『日向(ひゅうが)シャンシャン馬(うま)』の発祥地(はっしょうち)ともされちょります。」
タギシ「シャンシャン馬?」
ここで、日臣(ひのおみ)の息子、味日命(うましひ・のみこと)とサノの妃、興世姫(おきよひめ)が解説に加わった。
味日(うましひ)「俺が説明するっちゃ。『日向シャンシャン馬』っていうのは、県内で大正時代までおこなわれていた風習やじ。花婿が、美しく飾った馬に花嫁を乗せ、手綱(たづな)を取って、日南海岸(にちなんかいがん)沿いの七浦七峠(ななうらななとうげ)を越え、鵜戸神宮や駒宮神社に参拝してたんやじ。」
タギシ「されど、なぜ、シャンシャンという不思議な名前なんじゃ?」
興世(おきよ)「道中、馬に付けた鈴がシャンシャン鳴ることから、この名が付いたそうですよ。昭和以降は、民謡(みんよう)『シャンシャン馬道中唄』の大会がおこなわれ、その名残を伝えておりまする。」
タギシ「解説かたじけなし。では次に、母上の伝承を紹介したいと思いまする。」
サノ「高千穂(たかちほ)で留守を守る、吾平津(あひらつ)についての伝承か・・・。確かに、この流れで紹介した方が良いかもしれぬ。では、吾平津媛(あひらつひめ)に直接、説明してもらうとするか・・・。出でよ! 吾平津!」
吾平津(あひらつ)「みなさん、お久しぶりです。吾田(あた)出身の吾平津媛です。」
剣根(つるぎね)「台本では吾田は日向の地と書かれておりまするが、薩摩半島(さつまはんとう)の阿多郡(あた・ぐん)ではないかという説が出ておりますぞ。この地域は、古代より貝輪(かいわ)交易の拠点という役割があったようで、それを押さえていた一族ではないかと・・・。」
吾平津(あひらつ)「その通りよ、剣根。それを押さえていた一族なのです。ちなみに、貝輪(かいわ)は、沖縄などで獲れるゴホウラやイモガイといった、大きな貝で作る腕輪で、弥生時代の権威を象徴するものなのですよ。」
サノ「前々回、水と交換しようとした腕輪じゃな。ちなみに、その腕輪は、薩摩半島西岸の高橋貝塚(たかはしかいづか)で、たくさん製造されていたことが分かったそうじゃ。」
吾平津(あひらつ)「それだけではありませぬよ。貝輪は、弥生時代、九州北部や瀬戸内東部まで流通しているのです。そして、私たちが新婚生活を送った駒宮神社(こまみやじんじゃ)の近くには、油津(あぶらつ)という港があるのですが、そこには各地の産物が集まっていたのです。」
興世(おきよ)「その油津に、吾平津様の神社があるというのは、本当ですか?」
吾平津(あひらつ)「そうなのです。吾平津神社(あひらつじんじゃ)と申しましてね! 日南市(にちなんし)にお立ち寄りの際は、ぜひ当神社まで!」
サノ「汝(いまし)が観光大使をやる時代が来るとは・・・。」
堀川運河に面する鳥居の前には、サノの成功と安全を祈る、手を合わせた吾平津媛の像が立っている。
その像は、いつまでも、海を見つめつづけている。
つづく
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