見出し画像

七十代の童話鑑賞

きくよしエッセイ 2005年7月16日 菊池嘉雄 71歳

この記事を読み終わったら「スキ」と「スキをした記事」と「シェア」をお願いします。

 七十一歳の誕生日が過ぎた。七十代に入ったらものの見方が変わったように近頃思う。それを二、三書いてみよう。
 まず、童話や昔話の読み取り方が変わった。隣に娘の家族が住むようになり毎日孫の相手をするために日本昔話や世界の名作童話を一緒に鑑賞することになる。桃太郎や金太郎、猿蟹合戦やカチカチ山などはよく知っているつもりだったが実は知らなかったことに気がついた。例えば金太郎については熊と相撲をとって遊んでいたぐらいしか知らないのである。「どんな話だったけ」「そうかそうか、こんな話だったんだ」と改めて知ってみると驚嘆と感銘の大きく深いこと海、山のごとしである。
 桃から人間が生まれる発想、竹の中から姫が出てくる発想、月に飛んでいく発想、・・・すごいなー、すごいなー。なかなかできることではない。作り手の分からない伝承の話といっても誰かが考え出した話のはず。作者は必ずいたはずだ。その人はきっと狂人に違いない。私が十代の頃、童話作家のまねをしたことがある。宮沢賢治の影響だった。風の又三郎、注文の多い料理店、銀河鉄道の夜、どれも常人のできる発想ではない。のちに、精神科医などから常人ではなかったと指摘されている。七十年も無駄飯を食ってきた凡才の私には日本昔話の奇抜な発想は「かなわないなー!」と驚嘆し、作者は狂人に違いないなどとオカシナことを考えてしまうのである。
 アンデルセンの名作に「裸の王様」という童話がある。「うちの社長は裸の王様だから」などと揶揄的に引用されており、私もしばしばそのように使ってきた。ところが七十歳を過ぎたら「待てよ」とこの童話の読み取り方が変わったのである。どのように変わったか。「裸の王様をやり通せる人が実力者なのだ」と、または「実力者とは裸の王様でいられる人のことだ」と変わったのである。社会を実際に動かし仕切っているのは揶揄されている王様と取り巻き連中の実力者たちである。子供は実力者ではない。社会を動かし責任を背負うことのない子供である。子供だから「王様は裸だ」といえた、即ち純粋で恐れを知らない非実力者である子供だからいえたと表現したアンデルセンの才は光る。天才アンデルセンは実際の社会を見ていて発想したのだろう。そうだとすれば、いつの世も社会のトップは裸の王様的であることこそ実際に存在する姿(実存の姿)といわなければならないではないか。「裸の王様でないとトップはつとまらない」「トップに必要な資質とは裸の王様でいられる資質」なのであって、トップを裸の王様だと騒ぎ立てるのは評論家とか学者とか野党など社会の実権を握っていない人たちということになるのではないか。そして何かのはずみでそういう人たちが実権を握れば裸の王様にならざるを得ないか、さもなくばさっさと失脚してしまうのであろう。実例をあげてみよう。小泉総理と閣僚の動きは見ようによっては裸の王様のようで、岡田他野党や評論家は子供にあたる。小泉が衆院を解散し選挙演説をぶち始めたら支持率が急増した。ホリエモンも国会のセンセイになりそうだ。小泉は文化人なので裸の王様を知っているだろう。承知の上でやっているふしがある。だからだろう「俺の葬式に誰もこなくたっていいんだ」といっているそうだ。裸の王様の最後を覚悟していると思われる。かって野党の社会党が政権の座に着いたが早々にして降座してしまった。村山総理は裸の王様でいられなかったのだろうと思う。・・・このような受け取り方をされるとはアンデルセンもあの世でびっくりしているに違いない。
 アンデルセンといえばなんといってもマッチ売りの少女である。七十一歳の老人になって涙もろくなっているところで孫に読み聞かせをやっているとこちらが泣けてくる。加えてアンデルセンの生い立ちを知った。アンデルセンは極貧の中で育った。学校に行かなかったので初期のアンデルセンの原稿は誤字や文法ミスが多かったそうだ。マッチ売りの少女は母の少女の頃の体験談をもとに書いたものだという。貧しい母親と少年の生活、そこから発想されたマッチ売りの少女は爆発的な支持を受け世界中の読み物となり、アンデルセンが亡くなったときデンマークの国葬で弔われたという。貧しい生い立ちのこちらとしては自分に重ね合わせて泣けてくるし、「国葬をしてもらえたなんてよかったなーアンデルセンよ」とまた涙してしまうのである。蛇足だが、マッチが家庭になくなった今、マッチを一本ずつ燃やして暖をとり、暖をとりながら幸せな場面を空想して自分を慰めるくだりが、孫たちには説明しにくい。ライターやチャッカマンじゃあ、なんか感じが出ないんだよなー。
 イソップの蟻とキリギリスの読み取り方も変わった。この話は、夏の間キリギリスは歌など歌って楽しんでいるが、その間、蟻はせっせと働いて蓄えていたので、冬が来たときキリギリスは死んでしまうが蟻は生き延びるという話で教訓的な寓話として読まれてきた。私もそう受け止めてきた。しかし今は違う。近代以前の封建主義から近代の資本主義へ、そして現代の通貨資本主義かつグローバル資本主義への推移は第一次産業中心から第二次、第三次産業中心への推移でもある。具体的にいえば農業中心から情報産業や娯楽産業中心への推移である。もっと縮めていってしまえば生産社会から消費社会への切り替えをいち早くやった国が先進国であり文明国なのである。そうした国ではキリギリスは死ぬどころか隆盛を極め、蟻は息も絶え絶えである。ホリエモンなる人は三十代そこそこで何百億円もの資金を動かしている。この人がやっていることは情報産業や娯楽産業である。コツコツと努力し長い年月をかけてこそ、富と地位が手に入るものだと思っていた私の中で、崩壊しかかっていた蟻とキリギリスの価値観がホリエモンの出現によりとどめを刺された。テレビでは宮里藍なる十代の女性ゴルファーの戦績や彼女のコメントが毎日のようにトップニュースの時間帯で放映される。松井やイチローや野茂などのアメリカ野球での動きも毎日放映され、彼らの声が全国に流れる。長嶋茂雄の病状報道は昭和天皇並だった。芸能人や戯作者(小説家)などは第一次産業尊重の昔は低収入で社会的地位は低かったが、今は国会議員にもなれるし、地位も富も手に入る時代となった。それに比べて食料生産に汗する若者が晴れ姿として報道されたり話題になることはほとんどない。青少年に対するアンケートではプロスポーツ選手を夢見る数は多いが食料生産に夢を抱く数は極めて少ない。日本の農業後継者はいなくなり農家は瀕死の状態である。経済先進国になるほど蟻族は不利でキリギリス族は有利である。さて、孫には蟻とキリギリスの話をどのように読み取らせたらよいだろうか。
 虎の威を仮る狐の話も絵本にあるが、それを見ながら、私は虎の威を仮る狐程利口でなかったのではないかと思った。世渡り上手や見せかけ上手を嫌っていたがそれは単に自分がその才も能力もなかっただけかも知れない。上手に虎の威を仮りて自分の地歩を固め拡大して自己実現を成し遂げるならそれも立派な能力ではないか、と思えるようになった。狐は自分の強さや威力をよく認識しているから虎の威を仮りたわけで、それがばれたらさっさと退散すればすむことである。騙した奴とか化けの皮が剥がれたみっともない奴として袋叩きにあうこともあろうが、政界、財界、産業界、芸能界など領域によっては必ずしもそうではなく、「あいつは能力のないやつだった」と忘れ去られるぐらいですむことも多い。やりようによっては化けの皮が剥がれる前に「実は私は狐でして・・・」と了解を取り付けて集団をリードすることだって可能なわけである。それを最初から自分を強い者、威力のある者と錯覚して打って出れば、いずれは失敗し当人は落ち込み、周りに迷惑をかける危険がある。だからまず自己理解・自己認識が大切、仏教では照顧脚下などというのだろう。似たたとえに「寄らば大樹の陰」がある。こちらはとても響きがいい。私もそうしようと思って大樹に寄ろうとしたのだが寄り方がへたままに終わったように思う。
以上が七十代になって読み方が変わった例である。五十代や六十代ならこのようには読み取らない。七十代に入り、前線を退き、経験や知識を総合して周りや社会を見るから見えるようになったのだ。年をとったから分かるのだ。変化が激しい現代は年寄りの見方は当てにされないが、やっぱり年とった人は分かっているのだ、と思うようになった。
 今は幼い孫たちやその家族のサポートに追われ余計なことをやる暇はない。家事などもしなければならないことがいっぱいあるのにこんなもの書いていていいのかどうか、生活に支障はこないのか?。寸暇を見つけながらこわごわ書いた。
 孫子守  昼寝し合間のすきをみて 発表のあてなき 作品をかく 嘉雄
P/S 読み終えて良かったら「スキ」と「スキをした記事」と「シェア」をして頂けると有難いです。よろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?