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努力と好きなこと

今、1年ぶりに日本に帰っている。
神奈川県にいる母親の家に泊まっていて、そこには妹もいる。
帰国するとき、妹は帰ってくる日付日時を詳しく聞いて、最寄りの駅まで迎えに来てくれた。日本用のSIMカードがなくて連絡が取れないというのに、妹が寝坊して40分待つことになった時は不安になったが、そういうところも僕の妹らしい。
何というか、自分らしくいられるこの環境が好きだ。
こう思えることはとても幸せなことだと思う。

………..

妹は歌の活動をしているが、絵を描くこともできる。ここ最近毎日Twitterでイラストの依頼が来てとても喜んでいた。
自分自身の描く絵が必要とされていて、その対価にお金をいただけることが、僕には羨ましく、誇らしく思えた。
そこで僕が「努力が実ったね、よかったね。」と言うと、意外な答えが返ってきた。
「努力なんてしてないよ。好きなことをやっていただけ。」

妹は本当に小さな時から、絵を描くのが好きで毎日のように絵を描いていた。教本やイラスト集を買って読んで、日を重ねるごとに上達していった。でもこれは努力じゃないんだと、妹は言う。

じゃあ努力って、何なんだろう?

自分に置き換えて考えてみる。
自分が「努力していた」と感じることを例に挙げるとすれば、真っ先に思いつくのが陸上の練習と中国語の勉強だ。
でもそれって、好きだからやっていたんじゃないか?
そう思うと、自分の中で何だかしっくりときた。
僕は好きなことをやってきたんだ。
走る時の爽快感、記録を塗り替える楽しさ、ライバルとの競争が好きだから陸上の練習も頑張れた。
語学を学ぶのが好きで、話せるようになって今まで意思疎通ができなかった人とコニュニケーションが取れるのが楽しいから中国語の勉強も頑張れた。とても単純なことだけど、それに自分は気づけていなかった。

僕は小さな時から、努力を誉められるのが好きだった。
人一倍努力して、その努力している自分がかっこいいと思った。
決してそれも間違いではないと思う。努力は魅力的だと感じる人も多いだろう。問題はその努力が続くかどうかだ。
「何か努力をしなくちゃ」
そう思うようになってからは、闇雲に目標を作ろうとすることが増えた。
あまり興味がないのに、「資格が役に立ちそうだから」という理由で日商簿記二級の参考書を買って勉強を始めて結局挫折した。
結局、興味がなければ努力は続かない。そう思った。

これからは「努力すること」を見つけようとするのはやめよう。
好きなこと、興味のあることをとことん追求したとき、それが結果的に努力と同義になる、それが努力の正体なんだと思う。

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