132.NGな読書感想文のように。
今となってはNGの読書感想文なんて存在しないと思うんだけど、私が学生の頃は、
「本に書いてあった出来事を、そのまま書き写す読書感想文」はNGと言われていた。
まあ確かに、感想文としてはNGなのかもしれない。ただ起こった出来事を書き記すのは感想文ではなく「記録」とか「日記」のようなもんだから。
ところで、私が何故このようなことを書いているのかというと、実はNGな読書感想文の感覚はむしろ必要なことだよ、って言いたくて。
私はどこかしら探究者的なところがあるので、普段会話してるときに拗れがちになったり、思いもしない展開になったりする時、何故そういう会話になったのだろうか、、。と掘り下げるクセがある。
それから、セッションをしていても、すごく特徴的な会話の仕方をする人がいて、何年もかけて、分析してきた。(決してそのような人が悪いという意味ではなく、その時のその人の状態がたまたまそういう状態だったのだろうと推測する。)
その結果、どうやらもやもや、ぐるぐるしている時、会話が成立しなかったり、拗れてしまったりする時って、
「事実」と「主観」が一緒くたになっている時なんだな、ということ。場合によっては「主観」にかなり偏っていて、「事実」がそれに飲み込まれている時。
めっちゃ性格悪い言い方をすると、「思い込み」「被害妄想」的な状態の時。「主観」が「事実」になっている時。
「事実」に自分の中で起きた反応による解釈が乗っかっている時、とも言えよう。(ああ!これが一番しっくりくる表現だな!笑)
このような状態の時、極端に視野が狭くなっているし、自分からの視点しか存在していない。
例えば、(自分からしたら)ネガティブな反応を相手がした場合、(断られる、自分とは反対の意見を持つなど)事実よりも主観で解釈してしまいがちになる。
実際は相手がどう思っているのかわからないのにね。その状態で押し問答しても、そりゃ拗れるよね。
だから、NGな読書感想文のように、ただ事実を見ることができる力ってすごく大事なことだと思う。
その上で、どう解釈するかは自分で選択できるし、実際に相手とコミュニケーションを取って、創っていくこともできる。視野が広がると、可能性も増える。
そして、どのように解釈するかも大事だけれど、なにより自分がどうしたいか、というところをきちんと見てあげたいね。
案外それだけでよかったりする。シンプルに。
互いに「事実」だけを見て、「自分は何を望んでいるのか」を見てあげることができる状態なら、表現されている言葉が一見ネガティブなものでも、「相手が感じていること」としてフラットに受け取ることができるし、自己価値を揺るがすものとして解釈しなくなるから、反応するのではなく、相手のリアリティを尊重することができるのではないかな。
これが「ジャッジをしない」っていうことなんだろうなあ。
互いの望みを出し合って、創るのか、手放すのかを選択したらいいわけだし、どちらかが我慢して、迎合して、ではなく、互いにwinwinの状況を創ることだってできるわけだ。
まあそうは言っても、主観は悪者なわけではないし、完全になくすことはできないから、自分なりに解釈したとしても、「事実」とは分けて見れるといいよね、って話。解釈に対しても、本当にそうなのか?と、自分で自分に問うてみる、とかね。
メタ認知能力を活用するっていうことでもあるかな。「事実」と「自分の認知」を分けて見れるようになることで、自分の中で何が起きているのか、ということも同時に見てあげることができる。
結果的に、自分にも相手にも優しくなれる。
その為には思い込みや被害妄想が自分に起こっていても、それを許してあげることも大切。むしろ、どうしてそう解釈してしまったの?って聴いてあげることができたらいいよね。
自分を自分で傷付けない為にも、自分に優しくする為にも、この感覚を身に着けてみるのもいいかもよ。
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