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個人的理想像は、「子どもを手の平で転がす」先生!


子ども達の人数が多いにもかかわらず、先生の人数が少ないと、どうしても先生が子ども達を”管理する”方向になってしまいがちだと思う。


就学前教育の就学率95%の日本で、幼児教育の無償化は本当に必要?(Wezzy2017.06.21掲載)(https://note.com/shota_hatakeyama/n/nb2347781ea85)


管理するってなると、先生も子供も精神衛生的に良くないと思うんですよね。先生の立場だったら、子ども達が言うことを聞かなかったらイライラするだろうし。

個人的には逆に、「子ども達が従ってくれる」感じも嫌なんですよね。自由が好きなので、子ども達を支配するのはあんまし好きじゃない。己の欲せざるところ人に施す事勿れ。

個人的にはやはり、子ども達を「集団」として見るのではなくて、「一人ひとり」として見ていきたいというのがある☟


でも、日本の教育制度で「保育士1人に対して子ども20人」って、もう保育士は子どもを「集団」として捉えないとやっていけない状況になってると思うんですよね。

これって逆説的に言えば、子どもを従わせるのが上手な保育士がいて、それで今まで何とかやってこれたからこそ、「保育士1人対して子ども20人」という状況が改善されないのではないか?

従わせるのが上手な先生というのは、いわば、山登りで子ども達を山頂まで引っ張っていくイメージが個人的にはある。頂上までの道筋は先頭にいる先生が決めて、子ども達はその先生の後ろを付いて行くみたいな感じ。

個人的に目指したい先生像というのは、”子どもを手の平で転がせる先生”である。つまり、山登りにおいて、子ども達に好きなルートを選ばせる。そして、子ども達はAルート、Bルート、Cルートなどの様々な道を通っていくのだが、最終的には山頂に辿り着くのである。その時に先生は、子ども達が選んだルートの状況などを考えて、それぞれの子どもに対して適切な助言をして、頂上へ到達するサポートを行うのである。


ただ、それをするには膨大な準備が必要なのである。前者の引っ張るタイプの先生は「自分の進む道」だけの情報を仕入れておけばよい。そして、子ども達を先導するだけである。

後者の先生は、「あらゆるルート」の情報を仕入れなければならない。なぜなら、子ども達がどの道を選ぶか分からないから。子ども達がどんな道を選んでも対応できるように準備する量は、前者の先生の準備の量とは比にならない。

だけど、それをすることによって、やっと、子ども達に選択の自由を与え、子ども達の「主体性」を引き出すことが出来ると思ってます。

前者の「絶対にこの道を行かないといけない!」と子ども達に言う先生よりも、後者の「自分の好きな道を選んで良いよ!」と子ども達に言える先生に自分はなりたいと思っている。

そうやって、「子ども達に自由な選択をさせて、好き勝手にやらせているのに、子ども達は最終的にゴールにたどり着く」という芸当が出来る先生には、腕があると思う。

そういう観点から見ると、森の幼稚園は明らかに後者のタイプである。食事の時間以外は子ども達の自由遊びの時間になっているので、子ども達が起こすあらゆる可能性について先生は対応できなければならない。

子どもの数だけ求めてくるモノは違ってくるので、それらに全部対応できるようになるのは大変なことだと思うけど、その大変さのおかげで、こっち側がずっと勉強し続けることが出来るっていうのが、とても良いなと思う。

倉橋惣三の言葉を借りれば、

自分の修養を離れて人の教育は出来ない。

(幼稚園雑草(上)p109)

ということである。

子ども達の自由を守るために、陰であらゆる努力をし尽して、実践では子ども達の様々な要求にちょちょいのちょいと対応して、子ども達を好き勝手にさせてるように見えて、実は子どもを手の平で転がしている先生を目指したい。そう思って日々の実習に取り組んでいるし、だからこそ全ての状況が自分の血となり肉となり、将来の糧になっているなと実感している。


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