書きすぎた女
聞耳です。今日もしつこいんですけれどケイ・ライアン (Kay Ryan) の詩を紹介します。色々やらねばならないことや、きちんと向き合って取り組まなければならない心配事などがあるときに、普段使っていない部分の脳みそを使いたい。そんな時は彼女の詩が(その翻訳が)ぼくにとって一番の清涼剤になるのです。
The Woman Who Wrote Too Much
I have written
over the doors
of the various
houses and stores
where friends
and supplies were.
Now I can’t
locate them anymore
and must shout
general appeals
in the street.
It is a miracle
to me now –
when a piece
of the structure unseals
and there is a dear one,
coming out,
with something
for me to eat.
*****
書きすぎた女
いろんな
お家やお店の
扉という扉
友達の家の扉
職場の扉
にわたしは
書きつづけてきた。
書くための扉を
失ってしまった今は
つまらない戯言を
路上で叫ぶより
仕方がない。
奇跡が起こった。
世界の謎の
一端が
つまびらかになったとき、
ひとつの扉から
好きな人が出てきて
食べる物を
わたしにくれた。
*****
扉はわたしと世界をつなぐ継ぎ目。扉の向こう側に穏やかに暮らす、友人と、仕事と、世界と繋がるために、わたしは言葉を紡がなければならない。詩人にとっては、詩作以外のコミュニケーションは何の役にも立たないのかもしれない。ふと気づくと、詩人の周りから叩くための扉が失われる。何が起こったのかわからないけれど、書きたい衝動を抑えきれず、ただただ宙にペンを走らせるわたし。何かの拍子にわたしは気づく。ずっと求め続け、探し続けた世界のことわり。その一端に触れた時、愛する人が現れて、食べるものをひょいっと差し出す。
ぼくは詩が好きでたまりません。稚拙な詩も、意味不明な詩も、野心的な詩も、謎めいた詩も、ひとつひとつ抱きしめ回ってもいいくらいに詩が好きでたまりません。詩の翻訳や創作を通して、ぼくがすくいとれる世界は海岸に打ち上げられた割れた貝殻くらい他人から見たら無意味なものかもしれません。しかしそれでも、貝殻は海の存在を世界に伝えるでしょう。貝の欠片が呼び水となって詩の世界の広大さを、人々に振り向かせることになるかもしれません。ただ詩に向かえ。ケイ・ライアンの詩はそんなことを教えてくれた気がします。
聞耳牡丹
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