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個展 In Pause. について

 去年の5月、僕の2回目の個展を地元足利のギャラリー碧で開いた。今年の11月にも個展を開催するが、その前に前回の個展を自分で振り返ろうと思う。

展示風景2

 中間休止

 In pause.というタイトルは、「休止して・中断して」というような意。ヘルダーリンの「中間休止」を念頭に置いてつけた。中間休止とは、ヘルダーリンが悲劇を論じた際に持ち出された言葉だが、淀みなく進行していた劇のリズムを途切れさせるものとして、物語の山場に登場する。研究者の田野武夫によれば次のように説明される※1。

運命を自己の支配下におこうとした態度は、人間としての主人公が神の領域に足を踏み入れようとした行為、すなわち神と人間の合一の試みである。しかしその寸前において悲劇は、中間休止によってこの驕慢の行為を回避しているとヘルダーリンは考える。

  「神と人間の合一の試み」などというと、まるっきり神話の世界の話で、僕らとは縁遠いように思えるが、合一の感覚それ自体は、モノを作る人ならば案外体感として理解しうる人は多いのではないか。何か素材と格闘し、それを使いこなせるようになったとき、「運命」とまでは行かなくとも、キャンバスを、石を、木を、支配下に置いたような気持ちになる人は少なくないはずだ。そんな全能感へ浸りきる間際、中間休止が必要とされる。
 結局のところ、そのような全能感など驕慢にすぎない。だが、作品を完成させるには、そうとわかりつつ偽りの全能感に身を浸さなければならない。「これでこの絵は完成。みんなに見せよう」なんて発想は、そうした一種の驕慢が作者を貫いていないと到底出てこないだろう。
 危険なのは、その全能感が卑俗な政治性へと結びつくときだ。芸術家の純粋な自己充足への渇望は、簡単に権力へと絡めとられる。わかりやすい例は(僕の出身でもある)日本画だろう。横山大観が戦争協力に労を厭わなかったことは有名だが、彼は良くも悪くも、日本の伝統絵画という絵空事を現実のものにしようと全力を尽くした。平山郁夫はシルクロードを描くことで、その終着点である日本文化の特異性を称揚し、日本人の自尊心を充した。 
 今の日本画壇にそこまでわかりやすいナショナリズムの匂いはなく、それが奉仕する対象は「神国日本」や「日本絵画の伝統」から、公募展へとスケールダウンしたが、何らかの有用性に仕えるという基本的性質はいまだ延命している。
 上達の実感、作品完成時の高揚、組織の中での評価などが、自分のものした表現が本当は何に従属しているかの見極めを鈍らせる。人はそうした翳りの中に望んで入っていきさえする。

 つい日本画の話になると筆がすべるが、重要なのはそこではないので話を戻すと、単純な総体(先述の話で言えば「神国日本」や「伝統」にあたる)として何かが閉じようとしている刹那、それを阻害するものとして現れる「中間休止」をヘルダーリンは重要視していた。アドルノはヘルダーリンについて以下のように述べる※2。

詩人の美徳である忠実さは、失われたものへの忠実さである。それは、今−此処で把握されうるかもしれない可能性への距離を設定する。

 「今−此処で把握されうるかもしれない可能性」を恣意的に解釈し利用すると、例えばハイデガーによるヘルダーリン読解のような形に至る。そこには、根源的なものとドイツ民族とを接続し、民族アイデンティティの優越を図りたいという思惑がある(詳しくはハイデガー『ヘルダーリン詩作の解明』参照のこと)。はるか過去に属する「失われたもの」に、自分や自分の属する集団に都合の良い起源を見出すという態度は、「可能性への距離」を無視することに等しい。田野の言葉を借りればこれは「驕慢の行為」であり、であれば当然「忠実さ」とは中間休止の別名である。
 「把握されうるかもしれない可能性」と書かれた部分の原語がどうなっているか、僕はドイツ語が読めないのでわからないが、この日本語訳を読む限り、「されうる」「かもしれない」「可能性」と、推量の言葉を三つも重ねて「把握され」るモノへの距離感を強調している。それほどまでに、(ハイデガーのように)恣意的で総体的な把握の仕方は、アドルノにとって警戒すべきものだったのだろう。
 「今-此処で把握されうる」ものは、不完全で歪である。欠けた部分を欠けたまま措く忠実さこそが詩人に求められている。

adonis

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黄色い梨を実らせ
野薔薇を一杯に咲かせて
陸が湖のなかに垂れている。
優しい白鳥たちよ
口づけに酔い痴れながら
おまえらは頭を浸す
聖らかに醒めた水のなかへと。

悲しいかな、私はどこで摘んだらいいというのか
もし冬になったならば、花々と
日の光と
大地の影を?
壁が言葉もなく
冷たいままに立ちつくし、風に吹かれて
風見が鳴りきしむ。

 この詩(ヘルダーリン「生のなかば」※3)では、中間休止が効果的に用いられている。第一連と第二連の間の空白が、この作品における中間休止である。第一連で描かれる牧歌的な風景は、空白を境に、花々の不在に象徴される冬の光景へと変わる。幸福で牧歌的な感覚を保ったまま、この詩が閉じようとするとき、空白が挿入され、僕たちの意識に留保を突きつける。

 ところで、僕の花を描いたシリーズのタイトルである“adonis”とは、ギリシャ神話の美少年の名である。しばしばナルキッソスとも同一視される。彼はアフロディーテとペルソポネに愛された。二人の身勝手な愛に振り回される彼は、アフロディーテの住む地上の世界と、ペルソポネの住む冥界を交代で四ヶ月ずつ滞在する羽目になる(残り四ヶ月は自由)。秋に冥府に入り、春に地上に出てくるアドーニスは、植物の盛衰の象徴であった。

 そんなアドーニスの名を冠したアドーニス格は、死別を悲嘆する詩作によく登場する韻律である。この韻律が「生のなかば」にも使用されている。春夏の盛りから冬の光景に転換するという作品の構造は、まさにアドニスが辿った運命と重なる。それを韻律によって仄めかすというヘルダーリンの技量が光る作品である。

 それからもう一つ、アドーニスの特徴としては、子孫をもたずに死んだことである。美の極限であるアドーニスには、生殖能力は許されなかった。メニングハウスの『美の約束』に詳しいが、純粋な美という概念において、生殖の能力は、自己充足を妨げるという意味で余計なものなのだ(なかなかヤバめの考えではある)。それは、切り花に似ている、と思う。人が花の美しさを楽しみたいとき、切り花を買う。部屋に飾られた花は、花粉の運び手となる虫や風と出会うことなく、人々の目を楽しませ、枯れていく。そんなことを考えながら、切り花を描いた僕の絵にadonisという題をつけた。

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pose/pause

 もう一つ、この展示を構成するものとして「pose/pause」というシリーズがある。花を描いたadonisに対して、こちらは人を描いたものである。

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 ヘルダーリンの詩を知る前に始めたシリーズだが、一度つけた岩絵具を筆で拭い去るという技法によって、躊躇いの感覚や立ち止まることについて描いたものだ。絵具を重ねて完成に近づけていくという工程そのものが、(公募展系の厚塗りの日本画に辟易していた僕にとって)何か絵にとってクリティカルなものを覆い隠してしまっているような気がしていた。先にも書いたが、上達の実感や、きちんとした工程を踏むことで得られる満足感が見えなくするものは多い。
 絵具を拭うこと、それは厚塗り絵画への反抗という面も正直あるが、それだけではあまりにローカルすぎてほぼ無意味だ。そうした個人的に過ぎる部分以外で絵具を拭うことの意味、つまり拭うという行為のコアの部分は、adonisにせよpose/pauseにせよ、紙に乗った絵具が具体的な像を取り結ぶのに、一瞬タイムラグが生じることにある(新潟市美術館の学芸員である荒井直美さんにそのようにコメントいただき、そこから言葉をお借りしてます)。
 こうしたことをぼんやり考えながら描いていた僕にとって、ヘルダーリンの中間休止を知った時は、その「ぼんやり」に名が付いた思いだった。それからadonisのシリーズを描き始め、ちょうどギャラリーも二室あるので、全体を「生のなかば」のように二部構成にしようと企画したのがこの展示だった。
 一室をadonisで構成し、大理石とドライフラワー、鏡、黒い柱を配した(三枚目の写真参照)。二室目はpose/pauseの大作を主とし、立ちつくしている人々が居並ぶ空間にした(写真2枚目参照)。

 他にもいろいろあるのだが、僕のよくないところは作品が語るに任せるということができないところだ、と急に思ったのでこのくらいにしようと思う(今更遅いか)。図録に収録した文章もそうだが、相変わらず自分の展示について何か書くと纏まらない。だがそれは展示そのものが一つのまとまりとして存在し、文章とはまた別の秩序を持っているからなんだろう。自分の作品や展示についてあまり言及していない文章※4はそれなりにまとまることからも、その実感はある程度正しいような気がしている。

 最後に雑にまとめると、僕の個展In pause.は、ヘルダーリンの「生のなかば」を下敷きに、一室を詩の前半、もう一室を後半に割り当て、「躊躇い」「宙ぶらりん」「立ち止まること」などのキーワードを軸に構成したもの、ということです。

次の個展はin Plateaというタイトルでやります。それについての文章はもう少しきちんと纏めたいものです。

※1 田野武夫『ヘルダーリンにおける自然概念の変遷』鳥影社ロゴス企画 2015 p.68
※2 テオドール・W・アドルノ「パラタクシス」『文学ノート』三光長治 他訳 みすず書房 2009 p.171
※3 ヴィンフリート・メニングハウス『生のなかば ヘルダーリン詩学にまつわる試論』より 竹峰義和訳 月曜社 2018
※4そうは言ってもそういう文章もあまり存在していないのだけれども。例えば、小松佳代子編著『美術教育の可能性』第七章「芸術における「隔たり」の思考」などは修論を再構成したということもあって、僕の文章の中ではまとまっている方だ。

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