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マツタケ

 以前に買ったマツタケに関する本(アナ・チン『マツタケ』赤嶺淳訳、みすず書房 2019)を読んでいる。
 まだ途中だけど、なかなか面白い。

 アメリカでは、日本向けに輸出するマツタケを狩るハンターたちが様々なバックグラウンドを背負い、森に生きている。そこではマツタケ狩りだけでなく、バイヤーや、違法な採集行為を取締る警官などが織りなす、あたかも菌糸のように複雑に絡まるマツタケを巡る物語が展開されている。
 本文中でも指摘されているが、ネグリやハートのような思想家が想像する「帝国」は、均質で単一的であり、そこでは全てが規格化された単位によって翻訳することができるわけだけど、実はその帝国の周縁では、非資本主義的な空間に、数多の非資本主義的な生活が蠢いている、らしい(本文pp.97-99)。

 僕らはとりあえず当面は現行の資本主義体制から逃れることができないわけだけど、絵なんか描いてる身からすると、その論理にどっぷり浸かるのもなんだか違うなぁ、とまぁそんなことを考えてしまう。
 様々な人種からなるマツタケ狩りたちは、それぞれの「フリーダム」を求めて森を目指す。最終的にマツタケは日本の輸入業者へと卸され、日本のスーパーや百貨店などに極めて資本主義的な商品へと翻訳されるが、その源流に位置するマツタケ狩りは、資本主義とは相容れない論理、信条によって突き動かされている。
 僕もまた、同じような状況にあると言える。僕が絵を描くのは、それが資本主義的にパッケージングされて、世に流通するのを望むからではない。しかし、絵を描いている以上、それは最終的に一種の商品として流通する。もちろん買ってもらえたら嬉しいし、全く売れなかったら悲しい。だが、源流には売買とは関係のない論理が働いている。
 最近気がついたことだけど、僕は美術を取り巻く流通の仕組みに関しては割と保守的な考えを持っているようだ。むかし、ギャラリーの仕組みを変える!と意気込む同級生を手伝ったこともあるけれど(今、彼女はどうしてるだろうか)、今は現行の企画ギャラリーのシステムが無くなったら困る、と感じる。

 生産者が直接販路を持つ、ということは、中抜きされることもないし、ミドルマンにあれこれ言われることもない。企画ギャラリーであれば通常5割以上のマージンがあるわけだが、それが全て自分のものとなるのは、確かに大抵貧乏な表現者からしたら魅力的な話だ。しかしそれは、アメリカのマツタケ狩りたちが、森からキノコを採集し、価格を決め、日本の百貨店に卸すまでを全て担うようなものだ。そこにマツタケ狩りが望んだようなフリーダムはあるだろうか?

 自分自身の森に棲まうこと、あるいは東南アジアにおいて到達が困難な高地などを指す「ゾミア」的な場にとどまること、それを可能にしてくれるのは他ならぬミドルマンの存在である。

 ギャラリストの方々に、販売や交渉などを任せて、自分は森に棲まう(キリッ)などと言って資本主義から距離をとっているように振る舞うのは都合がいいように見えるかもしれない。事実、そうした指摘は全く否定できない。

 まぁでも、世界を焼く火でマツタケを炙って、人によってはカビや靴下、もしくはカビた靴下の悪臭にも感じられるという、あの香りを吸い込めば、一瞬、そんな矛盾も解決した心地になる。

それから、芳香が消え失せた後の飢餓感がまた僕たちを森へ向かわせる。







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