父と夢
ほとんど口を利かなかった父が、まったく口を利かなくなった。
少ない弔問客は皆、似たような「お悔やみの言葉」を述べてビールを飲み、寿司を食べて帰っていった。若い僧侶が読経している時、誰かの大きなイビキが鳴った。僧侶は振り返って部屋にいる全員の顔を眺めたが、その部屋で眠っているのは父だけだった。私は廊下で居眠りをしていたジョンを外に連れ出して犬小屋に入れた。
深夜、片付けを終えてから母と二人きりになると、その瞬間に父が死んだような気がした。
「お父さんのようになるんじゃないよ」と母は言った。
「きっとぼくはお父さんのようになるよ」と私は言った。
「馬鹿なこと言わないの」
「言ってみただけ。なりたくてもお父さんのようにはなれない」
私は立ち上がって線香をあげて、それから母を後ろから抱き締めた。母の肩に一気に力が入って強張ったが、すぐにゆっくりと力が抜けていく。母に抱き締められた記憶はあっても、自分から母を抱き締めたのは初めてのような気がした。
昔から父は時々そうして母を抱き締めていた。母が怒り狂って父を非難した後や、何もないように私からは見える時に。私は幼い頃、奇跡を見るようにそれを眺めた。両親と離れて暮らすようになってからは、帰郷した際にはそれを「哀しみ」のようなものを感じながら眺めたり、慌てて目を伏せたりするようになった。六十歳を過ぎた夫婦のそうした光景は美しいからなのか、醜いからなのか、よく分からなかったが、何か「哀しい」ように感じた。私は「哀しみ」という言葉を操ることはできたが、まだ哀しみについてはよく分からなかった。母を後ろから抱き締めながら父のことを考えた。母も私に抱き締められながら、父のことを考えているのだと思った。私が父になって母を抱き締めていて、自分だけがいないような気がした。母の右手の甲にどちらかの涙が一滴落ちた。父の遺影が黙ってこちらを見ていた。
小学校の低学年の頃は、父もまだ自然に言葉を発していたように思える。私は幼くして死んだ姉の為に用意されていた赤いランドセルを背負って学校に通っていた。
「なんで人は死んじゃうの?」と私は父に訊いた。記憶は夕方の公園で二人は木のベンチに腰掛けている。父はまだ皺が少なく、まだ自分は若いと思っているのが現われている表情をしているように今の私には見える。
「太郎はなぜ生きてるの?」と父は訊く。
「ちゃんとご飯食べてるからかな?でもお父さん、なんでお姉ちゃんは死んだの?」
「交通事故だよ」と父は優しい声で言った。
「そうじゃなくて、なんでなの?お姉ちゃんもご飯食べてたでしょ?」と私は言った。
「太郎、出血多量だったんだよ」
「ふうん。ねえ、お父さん。しゅっけつたりょうだとしても、なんで死んだの?」
記憶は途切れている。
また別の時、花火大会の帰り道に父と手を繋いで土手を歩いていたのを覚えている。父の大きな手に包まれて心地よかったが、やがて二人の汗が噴出してくると、手が沼に沈んでいるかのように感じられて変な気持ちだった。
「お父さん。ぼく、眠る前に怖い気持ちになる時があるんだよ。なんかね、目をつぶると体が浮き上がっていって、天井を抜けちゃうんだ。それでぼくは家の屋根を見下ろしてるの。早く布団に戻らなくちゃって思うんだけど、体がどんどん宙に浮いていっちゃうんだよ!よくあることかな?」
「夢を見てたんだね。大丈夫だよ、太郎。大丈夫」
「全部夢なの?」
「全部夢だよ」
「でもね、お父さん、どんどん浮いていって、ぼくはどうやっても戻れないんだよ!それで、だんだん屋根は小さくなって、たくさんの屋根が見える。それからだんだん地図を見ているみたいになって、ぼくの家はアリより小さくなるの。もうどれがぼくの家か分からないんだ。気付いたら地球が見える。全然青くないよ!それからもどんどん浮いていって、地球はアリよりも小さくなる。お父さんもお母さんも宿題も地球も大好きなユリちゃんも見えなくなっちゃう。真っ暗なんだよ。ぼく死んじゃったりしない?」
「大丈夫。太郎は死なないよ。全部夢だよ」と父は言った。
「お父さん。でも、なんで宇宙があるのかな?夜が怖いよ、ぼく。朝起きた時、宿題も学校もユリちゃんも全部夢のような気がしたよ。それに、ぼくはなんで授業中におならを我慢するのかな?すごくお腹が痛いのに、ぼく我慢してるの」
私は泣き出してしまう。父はシャツの袖で私の涙を拭って、「全部夢だよ」と何度も言った。泣いていても私の後ろにもう一人私がいて冷静に見ているような感じで、なぜ自分が泣いているのかが分からない。
「でも、なんで宇宙があるの?」玄関に入る前に私はもう一度訊いた。
「太郎ごめんな。総理大臣なら知っているかもしれないよ」父は手を離してズボンで汗を拭った。私は自分の手をしばらくじっと見ている。
私は伯父にも同じことを訊いた。伯父はどのように宇宙が生成されたか、ビックバンとは何かを語ってくれたが、なぜ宇宙があるかは語らなかった。母にこうした質問をすると、風呂掃除をした後に教えてくれる約束になり、風呂掃除を終えると茶碗洗いをした後で教えてもらう約束になり、それも終えると次の日の風呂掃除をしなければならなかった。担任の先生に手伝ってもらって、総理大臣に手紙を出したが返事はこなかった。
父とはそれから何かを話した記憶はないし、父と母が会話らしい会話をしているのを見たこともない。部屋にいつも寝転んでいる父を母は暴力的な言葉で痛めつけたが、父はいつも鼻で笑うか、そうでなければ母を抱き締めていた。私は成長するにつれて、父が言葉少ない人間なのだと理解していった。父は自分から何かを話し掛けてくるようなことは全くなかった。誰にも分からないことを質問して、相手を困らせることがなくなった頃には、話し相手は友人に限られて、何かを父と話そうとは私も思わなかった。その頃には音の出ないおならをする礼儀も身に馴染んできていたし、関心は生活のにおいにあって、宇宙については考えなかった。
時折、風呂に入るのを嫌がる父を私が気まぐれに叱ると、やはり鼻で笑いながら「大丈夫、大丈夫」といつもお決まりのセリフを繰り返した。三年前のある日、父がいつものように寝転んでいるのではなく、寝込んでいると分かった時、母は慌てて病院に連れていったが、医者の「どうしましたか?どこが具合悪いですか?」という質問にも「大丈夫、大丈夫」と父は答えて、家に帰ってきた。
父が死んだことについて、私は感傷的にはなるまいと決めて、自分に可能なだけ客観的な言葉で理解しようと試みた。「父というのは、大抵の場合、息子より早く死ぬものである」「世界中の父がいつか死んでしまう」「いままでもたくさんの父が死んできて、この瞬間にも誰かの父が死んでいる」「皆死ぬことに決まっている」「姉は父より早く死んだ」「もうすぐ母も死ぬ」「それより先に私が死ぬかもしれない」「父の父も死んだ」「いつか可能ならば私も父になって死ぬ」父がなぜ死んだのか理解はできなかったが、理解したつもりになることはできた。こうした当たり前のこと、「父は日々老化しており、大抵あなたよりも早く死にます。今も誰かの父が死んでいます。確実に父もあなたも死ぬでしょう」と電柱にでも張り付いていたらよかったのに、と私は思う。
葬式を終えてから三週間、実家で父のように過ごした。母は普段通りの生活を続けて、父の代わりに私にご飯を食べさせた。夕飯の時間には「早く戻って仕事をしなさい。仕事なんて何でもいいんだから」と母は言った。「お願いだから、お父さんのようになるんじゃないよ」もう長い間、眉間に皺が刻まれたままの母の顔を見つめながら、私は父のように無言で頷いた。
母の仕事は小さな呉服屋の経営、お花教室の講師、それから家事だった。母はじっと留まることができなくて、いつも何かをしていた。父の主な仕事は朝刊に折り込んである広告を眺めて、安売りの日用品を買いに行くと言って母からお金を貰い、喫茶店でコーヒーを飲んで帰ってくることだった。父は横になってテレビを見るのと、ご飯を食べるのが好きだった。当面の私の仕事は、新しい職を見つけることだった。
自分の生活の場へと向かう飛行機の中で、私は窓の外を飛んでいく雲を眺めていた。目を閉じた訳ではなかったが、いつの間にか暗闇を見つめている自分に気が付く。開いた目には過ぎ去る物が何一つ見えず、自分が暗い檻の中に閉じ込められているようだった。
果ての見えない暗闇の奥を凝視していると、暗闇を構成していた目に見えない物の一部が目に見えるかたちをとり始める。それはゆっくりと父のかたちをとった。
暗闇を掻き分けて静かに父が歩いてきた。父は火に焼かれる前の姿と変わりなかった。父の細い目が私の目と合わさると父は照れくさそうに目をそらして、片手を挙げた。
「お父さん、なんで死んだの?」と私は言った。
「大丈夫、大丈夫」と父は言って笑い、いつもはいていた緑色のズボンのポケットに両手を入れた。
「お父さん、死んだくせに大丈夫はないでしょう?」
「大丈夫、大丈夫。死んだだけ」と父は言って、面白いことしか笑わない子供のような態度で笑う。
父の全身の皺や染み付いた習慣や目に見える全てが虚飾で、ずっと欺かれていたのではないか、と私は思った。それからふと、これは自分のイメージで父な訳がない、と思う。ただのイメージに決まっている。しかしやってきた暗闇から抜け出ることができない。
「お父さん、死に続けるのってどんな感じ?」
「生き続けるのに似ている」と父は言った。
父に騙されているような気がした。父は一気に距離を縮めて顔を近づけてくる。父の息が私の顔に吹きかかる。じっと私の目玉を見据えた後、父は私の眉間を舌で舐めた。父の舌は生ぬるく、湿っていて、死んだ魚が眉間の上を泳いでいったようで気持ちが悪かった。イメージにしては生々しく感じた。いや、ただの生々しいイメージに決まっている、と私は思う。思っても、夢だと気付いた後も覚めない夢のように父はそこに確かに立っている。
死んでから饒舌になった父と私はいろんなことを語った。語ろうとするとその先が父には伝わるようで、実際には二人で沈黙していることで語り合うような形をとった。やがて、父は背を向けて、ゆっくり歩いて去っていく。父はいつでも去ることができるが、私の方からそれを留めることはできなかった。
目の前に雲と空が戻ってくる。我に返って、目を閉じた。父の死が始まって、その終わりが見えなかった。
(2006)
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