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カマキリとペン

 ヨドバシカメラにコピー用紙を買いに行った。私はペンネームで恋愛小説を雑誌に連載している。一度プリントアウトしないと推敲できないタイプなので、とにかく紙がなくなるのが早い。まとめて買って送ってもらってもいいのだが、小説の連載で飯が食えるというほどの知名度がなく、金に余裕がない。内容も月刊雑誌で四ページほどの、すらりと軽く読める、通俗的な恋愛小説だ。芸術性は求められていない。男女が出会い、誤解があり、すれ違いがあり、意外な過去があり、泣かせる山場があり、ハッピーエンドか、涙をそそる悲劇的な結末か、両方に取れる宙吊りのラストがある。繰り返されてきた恋愛小説の型を使いながら、言葉と展開のバリエーションとコンビネーションにいそしむこと、これが求められていることだ。時々無駄なことをしているような気がして落ち込むときもあるが、そんなことを言えば、この世は無駄なことばかりなのだから、頭を振って前向きに何も考えないようにはしている。
 ヨドバシカメラのいつもの場所に五百枚入りの安価なコピー用紙が見当たらなかった。私は近くを歩いていた店員にコピー用紙の場所を訊いた。
「こちらです」と若い男店員が私を先導した。短髪で顎のほっそりとした男で二十代後半くらいに見えた。
 彼は本格的にスポーツをしている、と私は推測した。おそらくは鍛え抜かれた脚のせいで、ズボンがはちきれそうになっていたからだ。尻は盛り上がり、足を踏み出す度にくいこんだブリーフの線がズボンに浮き上がっていた。彼は人々で混雑した広いフロアを何度も振り返りながら、私を先導していった。ほんの少し歩くと、私が後ろをついてきているか確認するために振り返るのだ。私は彼の盛り上がった尻を眺めたり、振り返って私を確認する彼の顔を眺めたりしながら、プリンタインクの棚を抜け、色とりどりのipodケースの陳列を抜け、積み上げられた箱の横を抜けた。彼が私を連れ込んだ場所は色のついた用紙が並んでいるところだった。ここはさっきも私が確認したところなのだが、もしかしたら見落としていたのかもしれない。
「あれ、ないですね」
 店員はしゃがみこんだり、たくましい尻を突き出したりして用紙を確認していったが、私が求める安価なコピー用紙はなかった。
「色のついたやつとか、写真印刷用の綺麗な紙もありますが?」と店員は言った。
「白い紙が欲しいんです。割安のやつが前にありましたよね?五百枚入りの。ほんとは千枚くらいは買いたいんだけど、五百枚入りでもけっこう重くて腕がだるくなるから」と私は言った。
「腕のことはきいてねえよタコ」と店員が小さい声で言った後で、口を手で塞いでいた。
「すみません」と私は言った。
 店員は少々お待ちください、と言って近くのレジまで駆けていき、別の店員に話し掛けていた。
 戻ってくると彼は言った。「わかりましたよ。こちらです」
 彼は何度も振り返って私を確認しながら、大勢の客をかきわけ、尻を揺らした。早足な彼はなぜか手を水でも掻くように曲げて振っていた。カマキリの手や古典的な幽霊の手を私は連想して、気分がとても良くなった。振り返るときの彼の表情も良かった。迷子にならないように私の姿を逐一確認する彼。根は真面目な良い人なのだろう。
 プリンタがメーカーごとに並んだフロアを抜け、ノートパソコンが両脇に並ぶ細い道をくねくねと曲がり、それから携帯電話が並ぶ、もっとも混雑したところを過ぎた。
 彼が連れ込んだコーナーに私が欲しい用紙はなかった。用紙どころか、USBメモリーがガラスケースに入っている前だった。どれが良いのかわからないくらい豊富な種類が並んでいる。
「おかしいな」と店員が言った。「A63のはずなんだけど。紙じゃなくてUSBじゃいけないんですか?」
「いけないことはないですけど。今欲しいのは白い紙なんですよ」と私は言った。
「それはもう知ってますから」と店員は言って、私の額にチョップをした。
「いちおう、客なんですけど?」と私は少しむっとして言った。
「今のチョップは個人的なものです、店員としてのわたしとは何の関係もございません」と彼は言うと、ベルトに装着していたトランシーバーを手に取り、顔の横にぴたりとつける。「A63にいます。貧乏人が好む白い紙なんですが、この場所にあるんじゃなかったでしょうか。どうぞ」
 彼はトランシーバーに耳をすませて、目がどこか遠くを見ている。「違うんです。貧乏人が買いたがる白い安物の紙ですよ。どうぞ」
「尻を拭くやつじゃなくて。わっはっはっ。先輩やめてくださいよ。マルチペーパーの五百枚入りのやつですよ。千枚だと腕がだるいとかいう貧相な客がいるんです。どうぞ」
「ふざけるなよ」私は彼のトランシーバーを取り上げて、床に投げつけた。「俺はこれでも小説家だ。こういうことになったことは全部書かせてもらう」
「あほだな、お前。いまどき、小説家なんてウンコだっつうの。好きに書けばいい、馬鹿たれが。どうせロマンチックな恋愛小説でも書いてるんだろうが。お前は終わったんだ。小説を書いているなんて抜かす奴はもう終わってるんだよ。飛んで火に入る夏のウンコ虫だよお前は」
 何も言い返せない。
 周囲のざわめきの中でも、床のトランシーバーの音がやけに耳の近くで聞こえた。嫌なノイズが鳴り、男の太い声がそこに現れる。U、N、K、Oと何度も繰り返す。UNKO?何かの暗号かもしれない。U、N、K、O。自分が何かをここで欺かれているような気がする。全てが仕組まれた罠だったのではないか、今までの人生全てがドッキリテレビのようなもので、今から私はその事実をあほくさい看板とヘルメットを被った男によって告げられるのではないかという恐怖が突然やってきた。UNKO。UNKO。
「さあ、こっちにこい」と店員が言い、私の腕を掴んだ。圧倒的な腕力がその掴み方の中に込められていた。ほどこうとすれば、腕がへし折られるのではないか、というほどだった。U、N、K、O。UNKO。うんこ?まさかな、暗号がこんな風にすぐにわかるはずがない。UNKO。
 男は私の腕を強く握り締めて、引っ張る。デジカメが並ぶ前を見世物のように引きずられて、エレベーターまで連れていかれた。
 十三階でおろされた。エレベーターのドアが閉じると暗闇に包まれる。しかし、男がスイッチを入れたのか、わざとらしくオレンジ色の光が壁にゆっくりと灯った。洞窟の中についた松明という趣だった。
「どこに連れていくつもりだ?」と私は言った。
「お前が望むところに、だよ」と店員は言い、自分の着ているシャツを左手でボタンもろとも引きちぎった。盛り上がった胸がぴくぴくと動き、乳首が立っていた。ベルトを外し、ズボンも脱いでいく。鍛え抜かれた脚と股間が丸出しになっている。ズボンと一緒にブリーフも脱いだらしい。
「やめろー」と私は叫んだ。「そんな趣味はない」
 男は右手で私の髪を掴み、抗えない強大な力で壁に私の頭をぶつけた。暗闇が目の前に弾け、断裂したフィルムのように自分という人間の背負っているストーリーがちぎれて、その後では自分が誰なのか思い出すところから始めなくてはならなかった。床に座り込み、頭に手を当てていた。ぬるりとした感触が手と顔を浸していた。もうだめかもしれない、という感じがした。頭が、何の誇張もなく足の裏のような感覚がした。何とか目を前方にやると、裸の男が手の甲を幽霊のようにこちらに見せて、がに股で立っていた。     幽霊というよりも、と私は思う。こいつはカマキリだ。
 男は私の足首を掴み、通路を引きずっていった。
「起きろ」と男は言った。「自分でドアを開けるんだ」
 目を開けると大きなドアがそこにあった。大理石造りで、オレンジの光を受けて、きらきらと輝いていた。ドア横には小さな台が置かれ、いかにも高そうな花瓶が置いてあった。花はない。
 私は膝をついて体を起こし、ドアノブに手をやった。ドアノブには抗菌済みというシールが貼ってある。ぼろぼろで端がめくれ上がっている。
 ドアを開けると二十畳ほどの部屋になっていた。四方には細い黄色の光の棒が天井から垂れ下がり、真ん中にはロダンが削って半永久的な生命を持ったバルザックの像があった。左右には厚いガラスが張られていて、その中には私の知らない絵や像や写真が飾られている。足を踏み出して初めて私は気付く。床には宝石が敷き詰められていた。砂利道を歩くときのような音を立てて、私はダイヤや真珠やルビーを踏みしめていた。
「前を見ろ」とカマキリが言った。
 バルザックの背後にドアが続いていた。UNKO。UNKO、とそこから声が聞こえる。
「さあ、あの先に入れ」カマキリが私の背中を蹴り飛ばした。私は光る石を踏みしめて、バルザックの横を抜けて、ドア前まで行った。中にもおびただしい数の宝石があり、それを無為に数えるよう要求されるのではないか、という予感がした。金持ちの道楽。こういうもののありかに、暗号としてのUNKOが鳴り響いている。もういい。俺の人生はこういうものだったんだ。気付くのが遅すぎただけだ。私はドアを開けた。嫌な臭気がして、鼻を押さえる。丸裸の電球が天井からぶら下がっているのが見えた瞬間、後ろからカマキリが背中を蹴りつけて、私は床に転がった。ドアが閉まり、鍵をかけた音が続いた。それからサッとドアの上部にある板がスライドし、カマキリが顔をのぞかせた。
 部屋は狭かった。狭い部屋というのを通り越して、汚らしい電話ボックスを思わせる。白い和式便器がボックスの真ん中にあり、穴の中には深遠な黒が続いていた。汲み取り式の古いトイレだ。周りは変色した木の板で覆われ、湿気がこもっていた。
「飯は一日二食もってきてやる」とカマキリは言った。「月に一回は窓をあけてやる、そこから自由に外を見てもいい。あとは死ぬまでトイレットペーパーに恋愛小説でも書くんだな。だがペーパーには限りがある。死ぬまで大事に使うことだ。尻を拭きすぎれば、小説を書く紙はなくなる。一方小説を書けば、尻を拭くのが減る。尻を拭かずに長い間そこで生きられると思うなよ。ヒントをやろう。最も賢明なのは小説をトイレットペーパに書いた後に、その小説で尻を拭くことだ。一石二鳥というやつだな。ペンは便器の中にある。とってくるがいい」
 私は和式便器の暗い穴の底を眺めた。UNKO、UNKO、と男の声がする。
「これはお前が望んだことだ」とカマキリは言った。「最後に電話を通じさせてやろう。五分だけだ」
「電話はいらん」と私は言った。「お前のことをこれからトイレットペーパーに書いてやる。ペンはあいにく、いつも所持しているものでね」
 私はジーンズの前ポケットからボールペンを五本取り出して見せる。後ろポケットにだってマジックペンがあったが、それは念のために隠しておいた。
「お前は死ぬ前に狂ってしまうだろう」とカマキリは言って笑い、細長い舌をちろちろと動かした。
「お前には何もわかっていないようだな。狂うということがどういうことなのか、小説とは何であるのかお前にはわからないのだよ、カマキリ。なぜお前がカマキリなのかわかるか?」
「カマキリと呼ぶな!」とカマキリはドアを叩き、目を剥いてにらみつけて見せた、と私はトイレットペーパーに素早く書きつけ、目の前に突きつけてやった。
「殺すぞ」とカマキリはすごんで見せたが、すごんで見せたにすぎなかったと私は書きつけて、再び見せてやった。
「カマキリと呼ぶのはやめろ!誰が決めた?」とカマキリは首を左右に振り、それは大きな失敗を公共の面前で犯し、ギコギコと羞恥心と緊張に襲われる未成熟な若者に似ていた、とトイレットペーパーに書きつけて、カマキリの顔に突きつけた。
「カマキリと書くのはやめろ。本当に殺すぞ」とカマキリは言うのだが、その様子が既にカマキリすぎるし、緑の顔なんてお前は草か?と言いたくなるほどだ、こんなに恥知らずのカマキリは初めてのことで、私の方が赤面してしまう、と書きたい気分だ、このカマキリ野郎が、と私は書いてカマキリに見せてやった、とトイレットペーパーに書いてカマキリに見せてやった、とここまでを書いてカマキリに見せ、続けて顔をぐいぐい隙間に押し込んですごむカマキリの両目に二本のボールペンを素早く突き刺し、みっともない悲鳴が続く間に、最後の一言を白い和式便器の金隠しに、マジックで書いた。消えろ、と。



(2008)

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