青の時代の夢
どうやら夢の中にいるらしいな、とわたしは思った。前にもこういうことはあった。どういう証拠を得て、そう思うのかはわからないが、夢の中にいる、と思うのだった。どこかの施設をわたしは歩いていた。すると、知り合いのような、数度は会ったことがあるはずの、中年の男が向こうから歩いてきた。わたしは、それを視野に収め、どういうわけか微笑みながら、挨拶をした。男は、うつむき加減に歩いてきて、恥かしそうに、挨拶を返して通り過ぎて行った。何が恥かしいのだろうか。わたしは、既にこの男に、この施設内で会っていたのだろうか、それで一日に何度も挨拶を繰り返していて、相手としては、そういうのが気恥ずかしいのだろうか。わたしの顔が識別され、彼のメモリーの中でふるいにかけられ、脳内を電気信号が行き交い、それは彼をして恥ずかしそうにさせるのだろうか。わたしはどこに歩いていくつもりなのだろうか。しばらくすると、目の前にはトイレの入り口が見えて、わたしはそこに行くつもりのようだ。白い壁が角を造っている、そこを曲がり、わたしは壁と壁の隙間に歩を進める。すると、眼鏡をかけた男がいて、歯を磨いていた。彼はわたしに気付くと、頭を下げて見せた。その間も、歯ブラシが小刻みに動き続けていた。というよりも、かなり急いで歯を磨いているのか、凶暴な獣が小枝にかじりついているようにも見える。わたしは用を足しながら、彼に声をかけた。「歯磨きがお上手ですね」とわたしは言っていた。確かにそんな気がしたのだ。男は、オエッという声と共に口の中のものを洗面台に吐き出して、こちらに会釈をしたかと思うと、うがいもそこそこに、急いでそこを立ち去っていった。わたしは用を足しながら、何か不思議な感じがするのだが、そんなことに構っていられないような気もするのだった。
トイレを出て廊下を歩いていくと、わたしの手は慣れた様子で、ひとつの戸を開けて、足がそこに入って行く。どうやら、何度か、この戸を開けて出たり入ったりしていたようだった。中は、職員室という趣で、デスクが並べられて、そこに人々が座っていた。恥かしそうに会釈した男は、どうやら偉い男らしく、窓際の少し大きめのデスクに腰かけていた。歯を磨いていた男が、ドアの近くの席に座っているのも見える。わたしは、自分が仕事に来ているのだと急にわかり、自分に与えられた席に歩を進めて、腰かけた。一日中、そこに座っていることが仕事なのだった。その間、視線を交わすことは、極力抑えることが要求され、仕事に集中している形式を維持する必要があるような雰囲気だった。また、基本的に、与えられた椅子から動くことには、明白な理由がいるのだった。これだから夢は困る、とわたしは思うのだった。
そこに座っていると、数十の人々が、同じ四角い部屋の中にいることで、誰が誰なのか、だんだん不透明になっていき、時計の針が、激しくぐるぐると回転した。人々がここにいることを恐れていることがわたしにはわかった。どういう原理かは知らないが、人々はここに身体を置いておくことで、ひとつの集合体になっていた。脳内で様々な電気信号がやりとりされるように、今、部屋の中のひとりひとりの挙動は、集合体となった巨大な脳の電気信号の一部となって、全体につながれていた。この部屋の中が、無数の脳の動きを集合させたのと同様になっており、そのメカニズムの中に組み込まれて、人々は、限定された一部として、ネットワークを行き交う電気信号となって、自分で自分を制御しているつもりで、全然それは不可能であり、巨大な脳、あるいは集合した脳の一部として、顔を上げたり、視線を逸らしたり、パソコンを見つめたり、受話器に向かって息を吹きかけたり、上役に頭を下げたり、手を揉んだり、仕事している体裁を整えたりしていた。それには、何かわからないが不備がある様子だった。その証拠に、部屋の中心に、燃え盛るように天井に向けて伸びる巨大な影が現れて、ゆらゆらと揺れているのだった。人々は、その巨大な影に視線を送ることはしなかったが、おそらくどこかで気付いているのだろう、人々は怯えていた、そこには震えさえ認められた。わたしは自分の席から立ちあがり、二秒ほどそのまま立ち尽くしてから、振り返り、部屋の中心へと向かって、歩を進めた。黒々として燃え盛る巨大な影の前に立ち尽くす。ざわっとした音が寄せてくるのが聞こえる。黒煙に似ているが、煙というには、あまりにも艶々と光った黒が、ゆらゆらしていた。
「これは、とにかくすごいことになっている」とわたしは口に出して言った。そして、周囲を見回したが、人々は、パソコンの裏で、影となって沈んでいき、床を流れていく。中心に向かって下って来て、合流し、目の前で燃えているのだとわかった。しかし、それが何なのかはわからない。
「何がすごいの?」と声がして、振り返ると、女がひとり立っていた。おでこの広い、黒髪を肩まで伸ばした女で、その顔を見ていると、なぜか懐かしいような気がするのだった。
「この黒いの見える?」とわたしは影を指差した。
「燃えてるみたいよね」と女は言って笑った。
「一体何だろう、これは」
「この部屋、というか、ここを解体してしまうといいのよ。そうすれば、この黒いやつは、光を浴びることが出来るのよ」
「どういうこと?」
「めんどくさ。もうやめましょう、夢の中でこういう話をするのは」
「じゃあ、どこでならいいの?」
女と思った姿形が、一瞬、燃え盛る巨大な影と同じだったような、区別がつかないような、つかみ切れない感じがしたかと思うと、するりとそれが逃げていったような感触だけが残り、思い出そうとしても、どうにも遠く、焦燥と不満のようなものをかきむしっているような感じがして、目を閉じたり、ぼーっと遠くに意識を向けたりしていたつもりだったが、気付いたときには、わたしの頭は、何度となく眠りと格闘して揺れて、パソコンのキーボードを打つふりをしては、意識を失うのを繰り返し、ついに立ち上がり、戸を開けて、廊下をトイレに向かって歩いた。すると、廊下には、鹿や猪などの獣がいて、わたしに気付くと、顔だけをこちらに警戒するように向けて、足は逆に向けて走り、わたしから懸命に遠ざかっていくのだった。中には歯ブラシをくわえている妙な獣もいる。ふと、逃げていく獣たちが、この施設の人々の顔と融合して区別がつかなくなったりして、よくわからないまま、とにかく夢から覚めたことに安堵する気持ちでいっぱいだった。
(2017)
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