祝いマスター

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　田中の話では、それは突発的に起きたと言う。満員電車の中で、くちゃくちゃとガムを噛む男の吐息を感じたとき、田中の目は、発生源である口元へと向かった。それが決定的なことになるとは夢にも思わなかったに違いない。鼻毛と髭の境界不明地帯で、青い砂漠に生えた黒々とした一本の木を、まるで夢のように見たのだと言う。それで、田中は電車を降りて出勤すると、会社に辞表を提出することになった。午前中に会社を辞すると、田中は歩いて天王寺まで行った。あべのハルカスを、何の目的もなく、歩き回った。老若男女が、同じようにさまよっていた。田中はその中に紛れ込み、溶け込んだつもりになって過ごした。透明なガラス、そこから見下ろされる街は、夢のように遠く、現実味がなかった。夕方に梅田のバーでビールをしこたま飲み、自ら正体不明を目指した田中は、バーのマスターの蝶ネクタイに向かって、言った。「ばかばかしくなっちゃって」とビールを飲んだ。「つまり、ばかばかしくなって会社を辞めたということなんですか」と蝶ネクタイが動いた。「満員電車で臭い息と飛び出た鼻毛を目にしたことで？」「鼻毛なのか、剃り残された一本の髭なのか、それはわからない」マスターは、大きめのグラスに注いだビールを田中の前に置いた。「グッド。あなたとは気が合いそうだ」ビールに口をつけながら「それはわからない」と田中は言った。「いや、わたしにはわかる。店を二時に閉めた後、踊りに行くんです。あなたも一緒にいきましょう」「何のために？」「ばかばかしさのお祝いに」雑居ビルがひしめき合っている、通りとも言えない細い路地を抜けていく間、人の顔を見て何かを見定めようとしている男女が、所々で目を光らせている。ゴミ袋を漁るカラスたちを思わせた。歩きながらマスターは、バーの常連の女の子たちと店を閉めた後、どのような楽しみがあるのかを嬉しそうに話していた。職人芸なのだろう、空気を振るわせて、おかしかろうがおかしくなかろうが、それなりの活気を生じさせる技を、歩いている間中、決して絶やさなかった。「マスター」と田中が呼んだとき、彼は「マスターはあなたです」と素早く言い返した。その瞬間、後ろから、何かが田中に覆いかぶさったような、何かを刺されたような、暗い夜の路地では、どんなことでも起こりうるのだと、暗い下側に身体が倒れ込みながら、「もし、俺がマスターなのだとしたら、一体、何の仕打ちだこれは」と田中は言ったつもりだったが、既に口は思い通りには動かず、誰かの笑い声が、夜の中に響き渡っていたということを、後で田中は強調した。十年経った今も、その強調の意味は遠藤にはわからなかった。実際の所、そこは路地などではなく、雑居ビルの一室だった。田中が倒れ込んだのは、部屋の床であり、田中が突き立てられたと思ったものは、遠藤の第三の足と呼ばれるものだった。それはばかばかしさのお祝いの一幕でしかなかった。しかし、田中の話では、睡眠薬を飲まされ、ばかばかしさの頂点から滑り落ちたのだ。田中の言う路地の隅で、元マスターの遠藤の言うビルの一室で、太った女が、田中の首や頭に腕を絡みつけて、「面白い話をして」とせがんでいた。田中が口を開くと、女は笑った。実際の所、「豚に興味はない」と田中は言ったのだった。しかし、女はそのような音の連なりとは無縁だった。そもそも、人の話など聞く気も、聞いたこともなかった上に、あまりにもダサくてお腹が痛くなる音楽が大音量でかかってもいた。「わたしのことエロい目で見てるんでしょう」と太った女が唇を動かしたとき、前歯がタバコのヤニで真っ黒であることに気付き、田中の中で葛藤が生じた。この女は、俺のことを気に入っているらしい。証拠に、薄明りがついた部屋の一室で、女は胸を田中に押し付けていた。そして、絶え間ないおしゃべりをしかけてきた。野菜の高騰や総理大臣の口べたやガリガリのモデルのことを必死にこき下ろして、さも楽しい時間を過ごしているという風であった。まるで、愛のダンスを盛り上げる楽しい会話がこれなのだと愚直に信じている様子で、次第に、女は口を近づけてくる。田中の顔にからみつき、窒息させようとするかのように巻き付いてくる腕は、大根足のようだった。「腕なのに」それで、田中は正気を取り戻すきっかけを得た。まさに天啓と言ってよい、と後で彼は力説した。空中に、突然、小さな滝が現れて、加藤と太った女の頭に降り注ぐ。笑い声がこだまし、遠藤が、瓶から未だ零れ落ちる泡をこれみよがしに部屋にまき散らしている。「優勝です、わがフランスの優勝です！」

2

　田中は立ち上がり、遠藤を手で押し倒そうとしたが、その手を捉えられて、床に押し付けられ、第三の足を尻に突き立てられた。それが何かの合図だったのかと思わずにはいられない、部屋の隅に、三角座りしている長い黒髪の、今度は細身の女だったが、前髪の間から、田中を見ていたのだ。目が合うと、さっと逸らして、それからくるりと目を回して、再び、田中を見た。そのような目の遊戯に、田中は、興味が持てなかった。ずっと昔、そのような遊戯に、幻想を抱いたこともあった。「眼球運動でもして、ヤフーニュース疲れを癒すといい」と田中は言って、立ち上がった。しかし、それは意識の営みで、実際の田中の足は、立ち上がらなかった。そして、笑い声がこだます中で、服をすべて脱がされて、第三の足がむき出しになり、太った女が、ほてった顔をして、近づいてくる。突然「南無阿弥陀仏！」と黒髪の女が叫んだ。音楽が止み、警官たちが部屋に押し入ってきた。奥のドアに遠藤と女たちは獣のような早さで逃げ込み、鍵をかけたのだろう、警官がドアを叩いている。「開けなさい！」田中は、床に裸で倒れたままで、剥き出しの下腹部に視線が集中した、その目の光が集まり、熱を持ち、第三の足は、猛烈な勢いで立ち上がり、職務を忘れた警官たちの息を飲む一瞬の後、「はやく立ちなさい、何をやっているんだ、いや立てなくていい」「足が立てないんです。ばかな連中がわたしの自由を奪って」「余計なところを立てて、一体何のつもりだ」サイレンの音が鳴り響き、開かずのドアが突然開き、警官が三人入ってきた。「どこに行った三人は？」部屋にいた警官の一人が怒鳴った。「ばかたれ、挟み撃ちのつもりが、逃げられてもうてるわ」警官が急いで、外に出て行く。

3

　三人の警官が部屋に残り、ばかばかしい音楽が再開された。「あたしがもしあたしなら、あなたがもしあなたなら、抱きしめて」警官の服を脱いで、コスプレから本性を現した太った女が、今度は大根足のコスプレで田中の首をしめてくる。あのとき、一本の鼻毛ないしは剃り残しの一本の長い髭を満員電車で見たとき、この上ない生命の神秘と喜びに、田中は胸を打たれたのだった。「キリストとブッダの結婚を願って、抱きしめて」と歌が部屋に響き渡った。この夜がきっかけになって、田中は、遠藤の店に通うようになり、雇用保険をビールに使い果たした。さっぱりした加藤は、静かな川辺を歩いて数か月を過ごした。川辺の時間が、まるで永遠に続くような気がした、と後に田中は幸せそうな笑みを浮かべて話した、と言う。その永遠が破られたのは、水面を眺めながら、河川敷に寝転がっていた火曜日だった。「あなたは何をしているのですか」とショートヘアの学生風の女が近づいてきて言った。「ごらんのとおり、喜びを味わっているところです」と田中は言った。「人生のマスターなのね、あなたは」「いいえ、味わっているだけです」そして、草にかじりついて見せた。二人は、冗談を言い合って笑った。その数時間後、女のアパートに転がり込んだことがきっかけで、田中は女と結婚することになった。女はスーパーに並べられるだし巻きの製造会社の娘で、田中はほどなく傾きかけた会社を継ぐことになった。数年経ったある深夜、田中はネット銀行にログインし、今では摘発されて誰もが知っているスイスの筋でマネーロンダリングし、会社の資金1億5600万円を小さな漬物屋に振り込んだ。昔からの馴染みの糠漬けの店だった。後年、このことについて、田中は、永遠が俺を呼んだ、としか口にしていない。田中は、ロールスロイスに飛び乗ると、北海道まで車を走らせた。その後、大阪北部地震、広島岡山の大雨が重なり、本社と支部は壊滅的な打撃を受けたが田中は知る由もなかった。北海道のある川岸で、子供を連れた妻が田中を発見したのは、十年後の火曜日だったと言う。出会ったときと同じように妻は声をかけた。「あなたは何をしているのですか」田中は草にかじりついて見せた。「この通り、喜びを味わっているところです」と微笑んだ。「あなたの子供よ」と妻は泣いた。「さあ、パパに抱きしめてもらいなさい」息子は、父親の横に寝転がった。「パパ」と遠慮がちに言った。「パパじゃないよ。今日から、俺のことを弟子と呼びなさい。わかったかい」「うん、わかった」仕事を手伝う見返りに、じゃがいも農家の馬小屋に親子三人は寝泊まりするようになった。干し草にかじりついて寝ていると、ほんとうにいい匂いがして、これ以上ない幸せを三人は味わい尽くし、オーロラの夢を毎晩見るほどになったのだった。すべては、満員電車のガムのくちゃくちゃから始まったのだった。そのことを思い起こすとき、加藤は、人生の不思議がおかしくて、腹の底から笑って、足をばたつかせ、「静かにしろ、弟子よ」と息子に叱られては、ばかばかしさが眼前に開いてくれた喜びの生活に、感謝の念仏を唱えては、空中に十字を切った。

（2018）