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【小説】水のない海岸

九州の片田舎の無人駅は、街と街を繋ぐ幹線道路沿いにあった。
道路にはたくさんの車が団子のように列をなしていて、どれもが異なる地名のナンバー・プレートを提げていた。運転手は誰もが退屈そうな顔をしている。

私は「ボーイスカウト・ろっかく化石発掘隊」と書かれたプラスチックの札を首にかけた小学生の間を縫って、車両の先頭にいる車掌に切符を見せた。無人駅ではこうやって降りるのが通例であるようだ。

当駅での乗降者は、私のほかに一人の女性だけだった。彼女は車両後部のドアから降りて、どこで切符を清算すべきか思案するように、左右をきょろきょろと見ていた。そのうちに車掌は列車を動かし始めたので、きっと清算しそびれたことになるのだろう。
彼女は私とほとんど同じ年齢に見え、おそらく同じ目的で降車していた。彼女は田舎では目立つ髪型をしていた。長さは肩に届くくらいで、耳の下のから外側にはねるパーマがかかっている。ベースは黒だが、はねている毛先だけが、初恋の頬のような桃色をしていた。
彼女は一度髪の毛を揺らすしぐさをすると、行き場を失った切符を、大袈裟に色褪せた水色のベンチにそっと置いた。そして私といちど目を合わせると、何も言わずに、目の前の道を右に向かって歩いて行った。私は道を左に進んだ。
 

誰もいない反対側のホームで、帰りの電車を調べておいた。1時間26分後に一本、その後は4時間半後だった。東京へ帰る飛行機に間に合うためには、前者に乗る必要がある。
もっとも、この場所で4時間半を潰すのが大変そうだった。もともと、私はひとりで海が見たいと思い、滞在していた地方都市から30分ほどのこの駅にやってきた。ところがホームから見る限り、幹線道路と干からびた田んぼ、そしてまばらな民家しか目に映らない。これではまるで、私の地元と変わらない。
ともかく、Google Mapを手にして、海がありそうな方向へと歩いた。
 
***
 
季節は春の真ん中で、内陸側の山は、こちらに迫る大波のような迫力があった。道にはわけのわからない虫が歩いていて、民家では軒先にビニール・プールが出され、水着の子供がAK-47の形をした水鉄砲で妹を撃っていた。

バイパス沿いを歩いていると、東京なら『きぬた歯科』の看板がありそうな路肩に、ラブホテルの看板があった。看板は地上3メートルほどの高さにあり、ダンプカーの側面についていそうな、頂点が丸い三角錐のライトで囲まれている(それらはすべて割れていた)。家族アニメのようなタッチでカップルが数組書かれ、その真ん中に『ホテル優等生』という店名が、かわいらしいフォントで書かれていた。
『ホテル優等生』?
私は看板に促されるまま、その次の角を曲がった。Google Mapによれば、それはちょうど、海へと続く道でもあったのだ。
 
***
 
舗装が剥がれている道の脇には水路があり、私が歩いていくと、時折ぽちゃんと何かが水面に飛び込む音がした。水は濁っていて、船の廃材の破片がかろうじて見えた。
私は口笛でアストラッド・ジルベルトの『おいしい水』に真似たメロディを吹きながら、リュックを背負い直した。いかんせん日影が少ないため、5月といっても暑い。シャツの背中に汗が染みてきた。

両脇には民家があり、若い人が住んでいるような雰囲気は無い。いかにも「帰省する家」のような見た目をした家の途中に、件の『ホテル優等生』があった。別に優等生でなくとも使えそうな、普通の田舎のラブホテルだった。
緑色の覆いで囲われた駐車場には、10年前のレクサスがひとつだけ停車していた。エアロパーツを交換し、車高をいたく下げていたので、幹線道路にあったローソンに入るのすら大変だろう。
 
優等生ホテルを過ぎると、民家は漁村らしくなってきた。倉庫が開いており、ブイや船が軒先で昼寝している。観光客はあまり来ないようで、シェパード犬が威嚇の鳴き声を上げた。
日陰になっている倉庫のラジオから、ローカルな通販ラジオが馬鹿でかい音で流れ、犬の声をかき消す。
「すごいすごーい。社長って太っ腹ね!」
「そうでしょー?こんなに安いの、他にはないですよ」。
女性の明るすぎる声が、雲が薄くかかった九州の青空に昇って消えた。

 
***
 
道路は学校の裏山のような形状の半島に繋がっていて、森の入り口には剥げかかった鳥居があった。水路は道路の下を渡り、右手で水門にせき止められている。鳥居の近くには、岸壁に寄生したフジツボのように家がいくつかあり、私は階段を使ってそれを通り過ぎた。鳥居の脇にあった掲示板には『海の守り神さま』と毛筆で書かれていた。

リュックからペットボトルを取り出して飲んでいるうちに、鳥居や家が載っている石壁が、防波堤の一部であることが分かった。ためしに左を見ると、幹線道路のほうまで、同じ高さの防波堤が続いていた。私は鳥居の左わきを通り過ぎ、小さな半島をひとまわりしてみようと思った。
 
***
 
半島の裏に回ると、そこには誰もいない海岸があった。はるか遠くまで遮るものはなく、空はずっと向こうのほうで、対岸の半島にぶつかっている。太陽は半島に遮られ、日陰になった海岸線は、何かの絵画のようだった。私は防波堤の切れ目から、美しい海を眺めようと試みた。
ところが、今は干潮時だったらしい。そこに見えたのは、灰色をした泥の土地だった。向こうのほうには電柱のようなものが立っていて、沖にあたるはずの場所に、いくつかの白い軽トラックが停まっていた。

私は海の近くに住んだことがないので、この光景は新鮮だった。さっそく海の底を散歩でもしてみようと思ったが、地面を見て血の気が引いた。そこには数えきれないほどの蟹が、その鋏を互いに見せつけあっていた。蟹と言ってもズワイガニのような立派なものではなく、手のひらサイズの茶色の蟹だ。彼らの家は海の底の下にあるようで、15センチほどの間隔を空け、無数の穴が開いていた。私が「ワッ!」とちいかわのような声を出すと、蟹はいっせいに動きだし、自宅に引きこもった。

いったん自然の驚異に触れてしまうと、やけにそういった類のものが目につくようになってきた。例えばつつじの花に佇んでいる、親指ほどの大きさの黒い羽虫や、日陰の道路に被さるように迫っている、半島の木々の枝についた得体の知れない実など。やけにワイルドな心地がしてくる。

私はそのまま海岸線を歩き、半島を左側から回り込んでいった。500メートルほど歩き、半島の半分辺りに差し掛かったとき、自分が歩いてきた方向に、人影が見えた。目の端でそれを捉えると、駅で見た女性が歩いてくるようだった。
彼女も私と同じように、干潮の海を珍しそうに眺めては、ときどき写真を撮影していた。途中でこちらの存在に気が付いたのか、私たちの間には、150メートルほどの一定の間隔が生まれていた。

***
 
半島の輪郭線を回り込むと、舗装された海岸があった。ニッカボッカを履いた作業員が三人、海側に突き出した防波堤に座って、住宅ローンと娘の話をしていた。彼らの目線の先にはごく小さな離島が見えていて、干潮の今なら、そこまで歩いて渡ることができそうだった。

海岸に降りていく岩の階段の脇には、その離島の説明が書かれていた。『守島』と言うようで、もとは半島の神社と同じく、漁師の安全を祈願するものだったという。ただし南北朝時代に僧侶が住み着き、そこで修行をしたことから、途中からは仏教的な価値が見いだされたようだった。
半島側を見ると、そこにも階段があり、入り口には灰色の鳥居があった。しばらく写真を撮って佇んでいると、女性はそちらへ消えていった。私は半島をさらに周回した。
 
はじめに見た鳥居のすぐ近くまで戻ってくると、小さな漁港があった。中型の漁船の間に、私の二の腕くらいの大きさの魚が寝ていた。きっと波に取り残されたのだろう。かれは生きていて、それを忘れないために、ときどきわき腹を泥にはたいていた。ペチピチという音がやけに響いていた。
 
***
 
帰りの電車は行きと異なり、地元の人たちが座っていた。体操着の中学生が、律儀にTシャツの裾を半ズボンにタック・インしていた。東京メトロに比べると、スマホに噛り付いている人はだいぶ少なかった。

地方都市には32分後に到着するとのことだった。
私はリュックが閉まっていることをいちど確かめ、それを抱えるようにして、浅い眠りに落ちた。夢には桃色の毛先の女性が出てきて、彼女は半島の上の神社で、高さが80センチくらいの祠に入っていった。走って追いかけた私が木製の扉を開けると、そこに彼女はいなかった。ただ何だかわからないもので祠の内側は濡れていた。ひんやりとした空気が、奥の暗がりから流れてきて、私の頬に当たった。私は辺りを見回すと、暗がりに手を伸ばした。何かやわらかいものに触れる心地がしたとき、列車は駅に到着した。

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