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親方

 水道屋として稼働を始めてすぐの話。

 神奈川県某所の一軒家にて敷地内水道管の破裂の為給水管の引き替え工事を行う事となった。

 大掛かりな工事となると自分が現場監督兼お客様との窓口となり、職人さん達と共に完工まで対応しなければならない。
 
 初めての自分の現場での工事。
 私はひどく緊張していた。

 今回の現場で対応してくださる親方は30年以上水道職人として生計を立てている百戦錬磨の職人さんだった。
 会社所属の職人軍団の中でもトップクラスの方。
 私の勝手なイメージでは
 "その道一筋の職人さん=気難しい人"
 といったものがあった。
 しかしその偏見は挨拶後直ぐに消え失せた。

親方「見てて分かんねー事は何でも聞け!」
  「おめぇ持ってねぇ工具とかあんなら俺の使わねぇ物ならやるから言えよ!」
  「おい!ずた袋持ってこい!」
  「おい!ここ押さえてろ!ちげぇ!ここだよ!!」

 言葉はぶっきらぼうではあるが、私を育ててくれようとする気持ちに私は凄く居心地の良さを感じていた。

 私は元々ボクシングを始める前は長らく剣道をしていた。
 昔の剣道の先生方もこんな感じだった。言葉遣いは荒く、よくぶん殴られたしぶん投げられた。女だからって容赦はない。問答無用でぶっ飛ばされた。
 しかしそこには言わずもがな"私を強くしたい"という「心」があった。
 だから何一つとして辛くなかったし、寧ろ未だに育てて下さった先生方を愛している。

 まだ知り合って間もない親方からも何となく似たような雰囲気を感じた。

 "私。この人。好きだな。"

 昼休憩。
 近隣の蕎麦屋に職人さん方と同行する事になった。

親方「よぉ。おめぇボクサーなんだってな。プロにはなんねーんか?」

菊池「プロライセンスは持ってます。デビュー戦はコロナで流れました。今ボクシングは興行も中止です。だからここにいます。」

親方「戻りたいか?」

菊池「…はい。私はまだ何も成せてない…。」

親方「戻れよ。今すぐとかじゃねーぞ。やり残すなよ。」

菊池「…はい…。」

親方「試合は見に行く。」

菊池「はい。」


 言葉数は多くはない。
 けれどその時私が一番強く望んでいた事。最も胸にぶっ刺さる言葉を親方はくれた。
 会った初日に。

 その後も完工まで連日工事は続いた。
 約1週間程は毎日親方達と過ごし、水道工事の過程やノウハウを学んだ。持ってなかった親方のお古の工具も貰った。

 この親方にはその後も工事の際には度々お世話になるのだが、稼働して直ぐに親方と知り合えた事はその後の「心持ち」としてかけがえのないものとなった。

 一時でも水道屋になった以上は「ボクシングに帰りたい。」なんて邪な気持ちは一旦殺さなければならない様な。誰に言われた訳でもないそんな気持ちがあった。
 
 「戻りたい。」この想いは抱えたままでもいいんだ…。

 自分に一つ嘘を付かなくても良い。
 苦悩の末にたどり着いた場所で、ガチガチに抱えていた荷が一つ降ろされた気がした。

 「機が来たら戻ろう…。必ず。そのかわりこの場所で今は全力で走ろう。受け入れて下さった御恩を返すべく全力で爪痕を残す。半端は許されない…。」



 その後水道屋として稼働する上での指針が定まった現場となった思い出の現場の話。

 望み通り競技に戻れた今。
 色んな理由でデビュー戦は未だ決まらない。
 
 一刻も早く戦いたいのに…。

 俳人の種田山頭火の俳句で「だまって今日のわらじ履く」という句がある。

 "どんな状況下でもごちゃごちゃ抜かさず寡黙にやるべき事をやる"
 という事。

 走ろう。黙って。わらじを履いて。

 

菊池真琴​

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