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記憶が薄れてもなお残るもの

歌のレッスンの時、母が先生にあげようと持って行った庭の椿だ。

もう時間の感覚も記憶もかなり曖昧だから、大好きなはずのレッスンを忘れてしまうことも、大幅に遅刻してしまうこともしばしば。
それでも、そんな母を温かく迎え続けてくれている先生には感謝しかない。

ゆっくりとではあるが、確実に彼女の記憶力が衰えてきているのを感じる。
京都に旅行に行ったことも、忘れたくないと必死で覚えてはいるのだが、もう何年も前のことに感じるらしい。
写真を見せると「懐かしいわね〜!」というので、「先月のことだよ」というとかなりびっくりする。(×数回)

そんな時、寂しそうな顔をしながらも、「やあね、もうすっかり忘れるのが得意になっちゃって」と笑うのだ。
自分のしたことを覚えていない、という状況は不安で仕方ないはずなのに、それでも必死で明るく返そうとする。

きれいに咲く花を見れば、大切な先生に差し上げよう、と思う。
広い空を見れば、なんできれいなんだろうねと足を止める。
誰かが声をかけてくれれば、必ずありがとうと言う。

どんなに記憶力がなくなっても、どんなに自分が不安になっても、こういう優しさだけはずっとなくさずにいる。

今どきの言葉で言うなら、母は常に「ありがとうの周波数」で生きているのだろう。

この年になってもまだ、母から教わることのなんと多いことか。
いや、若い頃の私が、母の魅力に全く気付けていなかっただけなのかもしれない。

私も、できるだけたくさんの「ありがとう」の世界で生きよう。
記憶が薄れた後の自分に残るものが、優しく温かいものであり続けるように。

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