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気功で悟りは開けるのか?

「気功を行うことで、悟りの境地に辿り着けるのか?」
「何が起きても動じない、人間の苦しみすべてから抜け出した存在へと成ることができるのか?」

そういった疑問にお答えします。この記事を書いている私は気功歴12年です。毎日気功を行っています。

気功で悟りは開けるのかどうか、実体験をもとに執筆します。

気功で悟りは開けるのか?

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結論です。瞑想と同じ様に、気功でも悟りの状態に入ることができます。しかし、悟りとは一時的な状態に過ぎません。

ですので、不変の悟りとは、存在しないというのが正解です。
悟りの状態について解説します。


気功を行っているときは、何も考えずに感覚に集中します。

うまく集中できるほど、脳の活動が鎮まっていきます。ベータ波→アルファ波→シータ波→デルタ波と、脳波が下がっていきます。

アルファ波以下になると、ドーパミンやセロトニンが脳から分泌されるので気持ち良くなってきます。

デルタ波まで下がると、「寝ているようで起きている」といった感覚です。そして、脳の無意識の部分が雑念をあげてこないので、心が静かです。

心のおしゃべりが止まります。無我の境地です。脳が限りなく活動を停止しているので、冬場の真水をかぶっても冷たさを感じません。

何か肌に当たっているけど、冷たくはないという感覚です。さらに、自分の体がここまでという感覚もなくなっていきます。

どんどん自分の体が広がっていって、宇宙全体まで広がっていきます。そして、宇宙と一体化します。

自分がこの世のすべてである、宇宙そのものであるという感覚です。自分が宇宙のすべてとなるので、何も求めるものがなくなり、すべての悩み苦しみから解放されます。

脳から快楽のホルモンが出ているので心地良いです。さらに、体の感覚がなくなっているので、すべてが自分の様な気がする状態です。

自分がこの世の存在のすべてである、宇宙そのものになったような、神になったような感覚です。すべてを許し、すべてを受け入れ、今のままで良いと感じている状態です。

これを悟り、解脱、涅槃、無我の境地と言います。気功や瞑想、呼吸法を続けていると、この状態に入れるようになります。

無我の境地になるには、体の血流も関係しています。例えば、ヨガは本来、色々なポーズで体をほぐした後の瞑想がメインです。

そのことからも、深い瞑想をするには、体の血流を良くした方が良いということが分かります。体の血流が良くなると、副交感神経が優位になってリラックスしていきます。

さらに、体の血流が良くなるとその分脳の血液が少なくなるので、脳の活動が鎮まっていきます。深い瞑想には、体の血流が良い事も大切です。

無我の境地になるには、集中も欠かせません。集中力も練習で向上します。毎日集中する練習をしていると、集中することが得意な脳になります。

そして、無我の境地になるには、脳内ホルモンを多く出すことも必要です。これも、気功や瞑想を続けることでその様になります。

ドーパミンは、脳の中脳の黒質というところで作られます。気功を行って頭頂部の百会、または、ヨガで言うサハスラーラチャクラが開くと、脳内ホルモンの分泌量が増えます。

悟りの状態を体験するのに一番大事なことは、目的を持たないことです。曹洞宗の開祖である道元禅師も、坐禅の極意を「只管打坐」(しかんたざ)と言いました。

これは、「ただ座る」という意味です。目的を持つと、脳が活動し始めてリラックスできません。ですので、何も考えずにただ座るということです。

実際には、何も考えないと雑念が入り込んでしまいます。そのため、どこか一点に集中します。気功であれば気の圧力の感覚を、瞑想であれば、呼吸やお腹が膨らんだり凹んだりすることに意識を集中します。


「何も考えない」「集中する」というのは、左脳を弱めるということです。

左脳を弱めるために、右脳(感覚)を使います。左脳が、自分と他人を分けて考えたり、余計な事まで考え出して苦しみを生みます。

左脳で考えなければ何も存在しません。自分というものも存在しません。悟りとは、考えないことであり、左脳の活動を停止させることです。

・悟りの境地

悟りの境地という、気持ちの良い境地は確かにあります。しかしこれは、瞑想や気功をやっている最中の、一時的な状態に過ぎません。

普通に生活をすれば、すぐにいつもの状態に戻ります。そもそも、脳の活動が限りなく停止した状態では、まともに社会生活が送れません。

悟りの境地は、気功や瞑想を続ける過程での副産物です。気功や瞑想には、脳を休めたり、セロトニン神経を活性化させる効果があります。

デルタ波になるような深い集中状態まで行かなくても、充分に効果があります。ですので、悟りの境地に過剰に期待したり、無理をしてまで追い求めるのは良くありません。


普段私達の頭の中は、欲望と悩み、苦しみでいっぱいです。しかし、それで良いのです。それが人間です。欲望はどこまでいっても満たされません。

自分の満たされない欲望を、何とか満たそうとして永遠に苦しむのが人間です。けれども、そのお陰でずっと努力することになり、自分自身が成長していきます。

自分自身の人格が磨かれ、魂も磨かれます。欲望がなくては修行ができません。魂を磨くために人は誕生させられたので、修行をしなくなっては人間の存在意義もなくなってしまいます。

ですので、悟り、解脱、涅槃というのは一時的な状態であって、完全に解脱するというのは、元々不可能なことなのです。

悩みの裏には欲があります。欲をなくせば悩みはなくなります。けれども、生きることが欲望そのものなので、生きている限り悩みはなくなりません。

それで良いのです。苦しんだ分だけ人は成長して幸せに近づきます。ですので、辛いことがあっても、このことが自分をどう成長させてくれるのかを考えます。

そして、自分自身の成長を幸せとして、人生の困難も楽しみます。そう考えられるようになれば、悩みが悩みではなくなります。

悟りとは何か?【気功】

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悟りの意味は、「知らなかったことに気づくこと」です。ですので、一つ一つの物事すべてに悟りがあります。

お酒を飲み過ぎて次の日を台無しにして、「お酒は飲まない方が幸せなんだな」と気づくのも悟りです。

私が思う悟りの考え方は、「諸行無常」「すべて自分が作りだした世界で生きている」「慈悲の心」です。順番に解説します。

・諸行無常

諸行無常は仏教の教えです。すべてのものは色々な条件のもとに、今はその状態で一時的に存在している現象に過ぎません。

この世に止まっているものはなく、常に変化し続けています。すべては滝の様なもので、実体のあるものは存在しません。

また、実体がないことを「空」と言います。在るようで無いという意味です。

例えば、自分が夢中になっている好みの異性も、今は若くて素敵ですが、一日一日外見も性格も変わっていきます。

不変なものはありません。ですので、執着するほど価値のあるモノはありません。そもそも、流れる現象に執着することはできません。

言葉で表すと流れる現象を固定できます。その捏造した妄想に執着しているに過ぎません。

人生は執着するから苦しいのです。「
この世に執着するほど価値のあるモノはありません。気楽に生きて行きなさい」というのが、諸行無常の教えです。

・すべて自分が作りだした世界で生きている

何かを見たとき、どう見るか、どう思うかは自分次第です。目や耳といった感覚器官が情報を捉え、概念を作りだし、それがどういうものか判断します。

そして、判断から感情が生まれ、感情にもとづき人は行動します。どう思うかが違うのは勿論ですが、実はどう見えているかも違うのです。

目の前に人がいたら人を見ているのですが、それは自分の感覚器官が得た情報をもとに、脳が作りだした映像を見ているのです。

本当の姿かたちは分かりません。私達は自分の感覚器官を通してでしか、世界を感じられません。ですので、世界が本当にどうなっているかは分かりません。

「人は自分が作り出す、幻想幻覚の中で生きている」とは、このことです。

人それぞれ若干作り出す幻想が違います。話し合っても分かり合えないのはそのためです。

自分の中に相手を観ます。相手の中に自分を観ます。すべてが自分が作り出したものであり、自分そのものです。

すべてが自分の中にあり、すべては自分次第です。このことを理解すると、楽に生きて行けます。

・慈悲の心

慈悲の心とは、相手の幸せを願う心です。相手の気持ちが分かるようになれば、相手の喜びが自分の喜びです。相手の幸せを願わずにはいられません。

また、相手の苦しみが自分の苦しみの様に感じられたら、相手を悲しませるようなことはできません。

相手の幸せを願うときは、自分の幸せ(欲望)を忘れています。自分の幸せ(欲望)を忘れることができたら、自分自身から解放され、幸せに包まれます。

その為には、人の為に何かをしてあげなくてはいけません。自分の持っている能力や時間を、人に捧げなくてはいけません。

人の為に何かをすること、徳を積むことで慈悲の心が育ちます。

相手の感情を読み取るのは、脳の前頭葉という部位です。相手の気持ちが分かるようになったら、他人事には思えないので放ってはおけません。

ですので、前頭様を育てることも、慈悲の心を育てることになります。前頭葉を育てるには、「新しいことをする」「何かを創造する」「対面で人と話す」「面倒なことをする」「一つの事に集中する」です。

慈悲の心を育てれば、自分の欲望が薄まり、苦しまずに生きて行けるようになります。

まとめ【気功で悟りは開けるのか】

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気功で悟りの状態に入ることはできます。しかし、気功や瞑想で体験する悟りの境地は、一時的な状態に過ぎません。

それよりも、「諸行無常」を理解して、執着せずに生きて行く。「すべては自分が作りだした世界」ということを理解して、すべて自分の捉え方次第として生きて行く。

「慈悲の心」を理解して、できるだけ人や社会のお役に立てるように生きて行く。こういった教えを、日々の生活を通して少しづつ理解していく。それが悟りへの道だと私は考えます。

悟りには色々ありますが、すべて自分という我を無くそうとするものです。生きることは苦しみを伴います。それは自分の欲望のせいです。

我がままのせいです。ですので、無駄に苦しまずに生きるためには、できるだけ我を無くしていくことです。

「完全な悟りは、余命宣告されるまで開けない」と言われています。それでも、できるだけそこに近づくように生きることが、人間の幸せな生き方です。

有料記事 ・気功のやり方【独学】初心者から極めるまで

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