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脳内サンプリング3

夏があっという間に遠ざかる。急激に冷え込み、昨日はジャケットを羽織るだけじゃなくセーターも着込んで出かけた。

1週間があっという間。noteとは別に3月1日から毎日欠かさず日記をつけるようになったのだけれども今週頭から昨日まですっかり忘れていたので6日分の出来事を思い出し思い出ししながら書く。何があったか。

月曜の夜、前の職場で一緒だったおかにーから電話がかかってきてなんやかんや1時間半近く話した。
おかにーは去年ぼくが前の職場を辞めた翌週に街路剪定で登っていた木から落下してかかとを粉砕骨折した。もともとおっちょこちょいな性格でぼくより10こも年上なのにいつもすいませんすいませんが口癖でよく現場の頭の人に怒られていたし、ぼくが在職していた間も蜂に刺されて病院に緊急搬送されたり草刈り機に当たって跳ねた錆び錆びの釘が足の裏に刺さりばい菌が入り1週間休んだり、熱中症になり現場を離れていた代理人に電話かけたはいいが「おれれおられられれー」と呂律が回らなくなって訳わかんない状態になったり、脚立が倒れて落っこちたり、犬の糞踏んで一時期周りから「くそにー」と呼ばれていたりと、とにかくネタに事欠かない。その時もちょうど足を乗っけた枝が枯れていたらしく、そのまま落下。通行人が何事かと心配して人だかりが出来たらしい。
去年の年末実家に戻っていたぼくは、「聞いてくださいよ〜」とおかにーからの電話でその話を聞かされて2階のベランダで笑い転げていた。外にいた親父がへんな顔してた。
そんなこんなでリハビリを続けていたおかにーはリハビリを頑張りすぎて骨折したかかとの状態が逆に悪化しちゃったらしく、なんだかんだでここ最近になってようやく回復して来月職場に復帰するんだと。前回コメダ珈琲で会った時は、松葉杖を使わなくても歩ける仕組みのオーダーメイドギプスを装着していてかなり歩きづらそうだった。

ぼくはぼくで今年の2月の最終日にけやきの上で剪定作業中にチェンソーで切り込みを入れておいた太幹がよそ見してる隙にポキっと折れて自分の右足の親指に直撃し骨折した。なんだかんだ全治2ヶ月くらい。なのでコメダ珈琲でおかにーと会った時はふたりしてヨチヨチ歩きでなんだか可笑しかった。

こういう仕事まわりでよく言われてるのが、「引っ張られる」とでも言おうか、誰かが怪我したり事故を起こすと立て続けに起こるケースがよくある。ぼくらの怪我のあとも友達が骨折したり前の職場の若い男の子がチェンソーで指切っちゃって人工の神経を入れただとか(彼はもう復帰してるらしい)。

月曜の夜の電話の中でおかにーが「どうしてもこれは言っておかなきゃ」と話し始めた話を聞いて愕然とした。
前の職場の現場にたまに応援に来てた、40くらいの個人(事業主)でやってる千葉の親方の人がいて、その人は奥さんとふたりでやってて奥さんもまた仕事が出来る人で。現場でもいろんな事を教えてもらったり、ぼくが昨年末会社を辞めて地元に戻り「独立しよっかなー」と思っていた時もその親方に電話で長々と相談したり、わりとお世話になっていた。

その人が先日登っていた木から落っこちて植物状態になって意識が戻らないらしい。聞くとその時ヘルメットも安全帯もしてなかったらしい。
確かに仕事は出来るけどわりと昔気質で荒っぽい所があって、みんなの前で奥さんを怒鳴り散らしたり街路剪定で安全帯もヘルメットも着けないで登ってる場面もたまにあった。
そういう安全への意識とか配慮ってここ最近より厳しくなったからみんなだいぶ守るようになったけど、10年前くらいはみんな平気でヘルメットも安全帯もしないで登っていたらしい。ただやっぱりあまりにも死亡事故なり大怪我が多かったからそれだけ厳しくなったんだと。そりゃそうだよね。ぼくからしたら高い木登るのになにも着けないなんて考えられない。だいいち死にたくないし。

初めて林業の世界に入った時の山形の会社なんかはみんなヘルメットしないのが当たり前で、被ると逆に親方に怒られていた。わけわからん。それこそねじり鉢巻きして木伐採してたもんなー。こんな令和の時代にねじり鉢巻きってのもなかなか貴重だけど。

その千葉の親方の話聞いて血の気が引いた。人生ほんの一瞬でひっくり返る。自分もこれからもこの世界に足突っ込んでるだろうから気をつけないと。

そんなことを話してた矢先に流れで週末におかにーと飲むことになり、ぼくが店を予約する。そこにはぼくら以外に、その職場の先輩であり人生の大先輩であり、ぼくに渓流釣りを教えてくれた池田さんも加わった。御年75歳。
池田さんもすでにその職場は辞めたけど、在職中にとある現場で他のメンバーが持っていた単管パイプをうっかり手放しちゃって、それが池田さんの足の指に直撃して粉砕骨折し、そこから半年以上は休んでいた。
「もう釣りには行けませんよ」と当時嘆いていた。少し寂しそうだった。

池田さんからは釣りの話だけでなく、本当にいろんな話を聞かせてもらった。
戦後の東京で生まれ育った池田さん。彼の知る幼少期の東京はまだ一部焼け野原で、まだアメリカ軍が戦車乗って走っていたという。そこから学生運動に参加し意見の食い違う人達と激しくぶつかり合った。
その後四谷に設計事務所を構えホームセンターやマンションの設計を奥さんと二人三脚で進める。やがて3人の息子達もそれを手伝うようになる。当時住んでいた青梅の自宅から四谷の事務所までを早朝1000cc越えのホンダのアメリカンバイクで中央道をぶっ飛ばし、毎日オービスが光ってたらしい(笑)。当時はまだ後ろ側にカメラが設置されていなかったらしく、バイクのナンバーは写んなかったんだと。

その後4、50代の時に福島に古民家を買い、週末だけ通って畑を耕すという週末田舎暮らしを楽しんでいた。今はもう取り壊してしまったみたいだけど、当時の写真を見せてもらったらとにかく楽しそうだった。

池田さんと現場を回ると、たとえば上野公園の現場なんか行くと「これがコルビジェの弟子の前川國男が設計した東京都美術館ですよ」とか首都高を走っていると「あれが慶応病院で、闘病中の石原裕次郎が手を振ってたのがあそこです」とか「あそこに見えるのがホテルニューオータニで、昔はレストランのあるあの丸い部分が回ってたんです」とか教えてくれる。

渓流釣りの話も最高に面白くて、釣り道具屋の親父に連れられて初めて渓流釣りに行ったその日渓流の奥地にいると上から竿を持ったおじいさんが下ってきたという。よく見るとその人は編笠を被り無精髭を蓄えていた。そのおじいさんは若かりし池田さんに「どれぐらいのが釣れたのかちょっと見せて、えっ、こんな釣ったの?しかも初めて!?」と驚いて立ち去っていった。よくよく聞くとその人はぼくも知ってる、伝説のテンカラ釣り師「渓の翁」と呼ばれる瀬畑雄三だったという。その時はさすがに「えっ、池田さんそれ瀬畑雄三じゃないっすか!?」と鼻息荒くなった。「あー確かそんな名前だったかなー、なんか胡散臭くてな」とか言ってたけど(笑)。

前回のnoteで背中に拡がるふるさとの風景、みたいな話をしたけど、池田さんの紳士的でゆるやかな口調で語られる昔話は、ほんとにその発せられる声から情景が鮮明に浮かび上がるくらい伝わってくる。ああ、この人が通り抜けてきた山奥の渓流、奥利根、天竜、北アルプス、奥会津、只見、魚沼。はたまた幼少期に親父に釣れられて行った伊豆の海釣り。雪の中家族で泊まった北海道でのキャンプ。高度経済成長真っ只中の高層がどんどん建てられるさなかの大東京(それまでは法律で高層を建てられなかったらしい)、賄賂が飛び交う当時の建築業界。再会した友人が実は学生運動時代に対立していた派閥にいてそれがもとで喧嘩となりその後二度と会うことはなかった事。

とある渓流へ釣りに行った際川が土砂で埋まって水もなにも流れてない場所に遭遇した事、実はそれが数年前にその地を襲った「三六台風」という未曾有の大災害で、集落全域が土砂に埋もれて消滅してしまった事をたまたまそこの村出身の人(設計の発注元の社長)に出会い話を聞かされた事。それがきっかけで資料をかき集め、いつかそれをもとに小説として完成させたいと思っている事。
「ただ私には図面は引けるけど文章を書く能力がなくてね、もう構想30年近くなりますよ」と語る。ぼくは終始泣きそうだった。
池田さん自身がもう映画だし小説だし、もうそれで十分ですよ、と言いたかった。

75年間さまざまな体験をされてるのにまったく偉ぶらない、まるで路傍の石のような佇まい。ぼくにとっては釣りの師匠であるだけでなく、人生の(遊びの)師匠だし、年の離れた友達だと思っている。軽やかで洒脱。そのまんまの人。

職場で休憩中に仕事の話をする人というのがぼくはあまり好きではなくて、池田さんと話してるとただただ楽しかった。数ヶ月前に池田さんのお宅にお邪魔させてもらった時も奥さん共々いろんな話を聞かせてもらった。奥さんは奥さんで北海道の競走馬の馬主の娘で、確か先祖がアイヌの出身で、当時はまだ住んでた街の隣がビラトリとかニブタニと言ったアイヌの集落があり、アイヌの衣装を身に纏ったお歯黒のおばあちゃんとか普通にいたという。

池田さんの声に見てきた風景が見える。その風景が当人が鮮明に記憶しているからこそよりこっちにも伝わる。なにが大切なのかを知っている人。余計なことはしない人。そんな風に自分もありたい。


昨晩、待ち合わせた駅前で完全に一杯やって出来上がっちゃってる池田先生を引き連れておかにーの待つ場所へ行くと、ぼくらに気づいたおかにーが歩み寄る。おー普通に歩いてる!と思わず叫んだ。

ぼくが予約したお店は別に行きつけでもなんでない、ただ雰囲気が良さそうって理由で選んだ、30年以上近くそこにある居酒屋さんらしく、店に入る階段を上がると、お客さんが満杯で活気づいていた。30年近くこのお店で働くおばあちゃんが「よく来てくれましたね〜。なに飲む〜?」と迎え入れてくれる。自分の感覚を信じて正解だった。


池田先生とおかにー


ひととおり酒宴も盛り上がり池田さんの三六台風の話を聞いた後あたりで、おかにーが別の席で飲んでいたおじさんに話しかけられる。「おー岡ちゃんじゃん!なにしてんの!めっちゃくちゃ久しぶりじゃん」と。聞くと16年ぶりぐらいで、当時スーパーのお花売り場でお花屋さんとして働いていたおかにーは、そこにたまにお花を買いに来ていたそのおじさんと仲良くなり、おじさんの所属していた野球チームに入っていたんだという。それから数年は所属していたけど花屋の仕事が忙しくなり、だんだん練習にも行かなくなり、連絡も取らなくなり、はや16年。。。

そのおじさん達はこのお店で今はもうバラバラになってしまった野球チームメンバーで約10年ぶりの飲み会を開き再会を懐かしんでいた所に、偶然居合わせたおかにー(岡ちゃん)と16年ぶりの再会を果たすという奇跡的な展開。関係ないこっちも嬉しくなる。これ完全に引き合わせたよね!?おれが引き合わせたよね!?とおかにーに突っ込む。なんだこれミステリー。


店じまいまで飲み、階段をおりふらっふらの池田先生の両側にぼくとおかにーで周り肩を預けてサポートする。タクシーを拾う。見送る。

そのままぼくは福生で飲んでいる現職場の人達のいるバーへ行くが、途中で寝落ちし椅子から転げ落ちたし、いかがわしさ満点のお店に集う人々は池田先生物語を聞いた後だと余計にペラペラに見えて自分には似つかわしくなかったし、たばこの煙くさくて吐きそうだったし、なーんか全然そっちには行かなくてよかったなー。

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