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工夫のススメ

目の前にある問題を「解決」という言葉で乗り越えようとするとなんだか重たくて逆にしんどいですよね。
解決じゃなくて「工夫」する、っていう考え方にシフトしていくと、少しだけ軽やかになる。
解決、というとなにか社会的側面(いわゆる公的機関や第三者を挟んだなにか)を感じてしまって個人的にはとても重苦しい。だんだん脳みそがキューっとなってくる。
「工夫」だと道具も使わずお金もかからず今すぐに思いつけばできることなので、めちゃくちゃ楽。要はマインドを切り替えるということですね。むしろ工夫は解決の手前段階に近いかもしれない。そもそも工夫なくしてはなにも変化しないし好転していかない。

工夫とは、少しおつむのネジを緩めてバカになること。いわゆる社会人として日々を過ごしていると、社会保険ないし国保に加入し、親兄弟がいて、給料がいくらいくらで、どう見られるかを考えたり、立場や地位を考えたり、流行りに乗れてるかに悩み、こだわりがなきゃいけないとか知識や教養をつけなくちゃとかと自己啓発本を読んだり、同級生の結婚に焦り、いろんな身ぐるみを着てもともとどこから来てどこへ向かってたのかすらわからない錯乱状態に陥ってしまっていることが多々ある。そうなると謎に献血に並んでみたり、投資やFXに手を出したり謎のパーティーに参加したり急にストーリーでマジレス長文投稿したりマッチングアプリの相手に説教始めたりもうわけわかんないっす状態になってコンビニでおでんツンツンしちゃったり。「海賊王におれはなる!」的なノリでYouTuberになってひと山当てようとしたり。

特にこんな時代だと誰もが何者かでなければならない、みたいな強迫観念を植え付けられていて右往左往してしまうのはよくわかります。でもそれすべて自分本位じゃないんですよね。行動の起源が他人に委ねられていて、だからふわっと浮わついたまま他者の幻影を追いかけて気づいたらここどこ?みたいな。心のGPSの精度激悪、みたいな。

行動の起源はもともと子供の時は自分にあったはずです。「おやつ食べたい!」とか「自転車で手放し運転するぞ!」とか「水たまりに飛び込んでやる!」とか、ひとつひとつが半分無意識に近い状態で発生している感じ。
そこを学習やルールを与えられることでだんだん制約されてって、酸素の薄い、言いたいことも言えないPoison状態になってしまっていて、苦しみで引きつった顔になっちゃうってのはよくあること。…とあっさり言うのも憚られるくらいわりかし多くの人が知らないうちにズブズブと魔境の世界に追いやられてしまってます。

「工夫するとはバカになること」と先述しましたが、つまり工夫する=バカになるとは、「無意識の発生を意識的にとらえて、それに準じて行動する」ってただそれだけの事なんです。それこそ水たまりにわざと飛び込んだ瞬間をメタ的に捉える必要があるってことです。
水たまりにわざと飛び込むことにいちいち理由を求めるのが大人です。だから子供に「何故そんなことするの?服が汚れるでしょ!」とか「風邪引くでしょ!」とか間髪入れずに言っちゃう。当の子供自身はただ水たまりに飛び込みたかったから飛び込んだだけで、その理由を問われる度に、緊張し、萎縮していく。別にいいじゃん飛び込みたきゃ飛び込めば。大人だろうが子供だろうが。
だからそういう事言っちゃう大人自身、その自分自身の問題を置き去りにしてしまっているからこそ子供にそんな事言っちゃうんです。もう負の連鎖でしかない。

それぐらい生きることそのものにまで理由を求めてしまうぐらいに人は危険なレベルまで「こうだからこう」マインドになっていて、かつそれにより苦しめられている自分に気づいていない。いやもっと言えば、気づいているのに気づかないフリをしているだけ。
こうだからこうマインドにより苦しめられている、その苦しみに気づいている。なのに何故その状態の自分をおざなりにするのか。それは単に怖いから。その問題が消え去ることで今ある自分が大きく変化してしまうんではないか、という恐怖、不安。
知らないうちにぶくぶくと膨れあがった心の負債との付き合いが長くなっているせいで、もといる場所を忘れ、今のその状態が本当の自分であるかのような錯覚をしてしまう。かなりヤバい状態なんだけど、その問題を抱えた状態の自分というものにすでに寄り添ってしまっている、むしろ愛着すら湧いている、ということが問題なんですよね。少しややこしいですが。だから問題意識はあるのに変化するのが怖い。

会社の問題にしてもそう。明らかに自分の扱いが不当であるにもかかわらず、「いやそれでもなんだかんだお世話になってるから」とか言っちゃう。そこにはアディクションが発生していて、ある種の中毒患者になっちゃってる。

「工夫」がなにかをまず紐解く為には、心の発生を意識的に捉えていく訓練が必要です。
「なにかがしたい」とパッと思い浮かんだ時に、ものすごい早さで「理由問いかけマン」が飛んでくるのを阻止する必要がある。理由問いかけマンを封じ込めて、そのしたいという気持ちをあたためる事。そしてそのしたい事をメモに書き留めること。仕事は準備八割、とか言うけど、やりたいことをメモに書き留めるだけで、もうすでに何十%は達成できちゃってます。その残りの数十%を達成する為には、それに必要な道具がどれだけ陳腐でも、とにかくまずやってみる。怪我をする。トライアンドエラーを繰り返す。一回やって失敗したらその失敗にビックリして首引っ込める亀みたいに当分顔出さないみたいな状態になっちゃうと2回目以降はない。最初の怪我の傷は禊のつもりで、2回目からが重要になってくるので、まず怪我しましょう。そうしたらいちいち首を引っ込めなくなる。慣れてくるから。
慣れてくればこっちのもんです。だんだん失敗することすら楽しめてくる。そうなったら波に乗れてるのと同じで、だんだんリズムを掴んでくる。
実際自分自身は一体どれだけの物事に対してリズムを掴めてるかどうかわかんないけど、少なくとも誰かしらの評価を前提とする行動は減ってきた。20代に比べたら。
20代は「誰かおれを認めてくれ!」とひたすら心の中で叫んでいたけど、今強く思うことは、「自分が認めちゃえばもうそれでいいじゃん」ってこと。むしろそれなくしてはなんの行動も進んでいかない。だからとにかく些細な行動でも0から1へ動いただけでも「すごいよ!よくやった!」と褒めてあげる。ひたすら褒める。それをぼくは「自分で自分を褒めたいです」という流行語を残した元陸上選手の有森裕子になぞらえて、『有森裕子方式』と勝手に呼んでいます。

有森裕子方式を採用してからはどんどん心が軽くなってきました。行動にクオリティガン無視。そうやって初速をあげて転がしていけばなんにおいても万事うまくいく。
適当にどんどんやろう。


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