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『時間について』

 いつも通り石臼で粉を挽く。直径40cm、一周は約4秒に設定している。品質やその年の出来によって粒の大きさも変わるので、その都度、音と手触りで確かめながら微調整する。計ってみたら一周で2gだった。遅いと思いますか。速いと思いますか。ロール製粉なら一時間で数トン単位で挽ける。遅いと思いますか。速いと思いますか。(効率至上主義が~とかスローがいいよねっとかいう話ではありません)
 私には、ついさっきまで麦の粒だったのが、石の間で磨り潰され、挽けた粉がただそこに在る、というだけの事に感じる。
 4秒で2g挽けた、のではない。2gの粉を得るのに掛かった時間がただ4秒だったというだけの話。わかりますか。
 パンの焼ける時間についてもよく「何℃で何分で焼けるのですか」と訊かれる。何分で焼けるのではなくて、焼けたかどうかは見た色と、触った時の音と、重さを手で感じて確かめる。時間はパンを焼いてはくれない。焼けるまでの時間、それがたまたま40分だった、というだけの話。
 そもそも、「時間」とは何だろうか。それは人間が作り出した“概念”である。
 人類が時間を作り出したのは、紀元前約3,500年頃のエジプトで、建てたオベリスクの影の位置に基づいて、一日を午前と午後に分断し、はじめて時間という概念が生まれた、と一応されている。そこにはじまり、影と星の動きで一日を24分割し、今度は地球が太陽を一周する周期を把握して、日照時間、雨季、災害を予測することで農業生産力を向上させーーーーーーーーーー(時の流れをーーで表現してるつもり)現在のわれわれの生活に至る繁栄に繋がっている。
 では時間の発明以前、つまり時間が存在しなかった頃、そこには何があったのか。
 それは「現象」である。時間の概念が適用されない、物事が変化していく様がそこに発生しているだけの状態。
 人が時間の概念を作り出してからしばらくは(しばらく、といっても機械時計が発明されるまでの約5,000年間くらい)、時間はあくまで現象、つまり〈影が動く〉〈陽が沈む〉といった現象を捉えるためのツールとして使われていたように思う。
 それがおそらく人類が一定のリズムで時を刻み続ける機械時計を発明して以来、いつの間にか時間が時間のみで存在し、時間によってすべての物事が動いているような錯覚を前提として社会が動き、その錯覚は宇宙の膨張のようにじわじわと、知らぬ間に生活を侵食している。何度も言う。3分でカップラーメンが出来るのではない。カップラーメンが出来るまでの変化が3分だった、というだけの話。
 人の寿命は人それぞれ違うのに、なぜ同じように流れていると言えるのだろうか。
宇宙誕生から消滅まで存在し得るであろう「現象」と、たかだか数百年しか使っていない「時間」の力関係が、どうして逆転するのか。私にはわからない。
 時間の経過は単に一種のモノサシであって、思っているほど価値のあるものではない。と思う。

 時間は待ってくれない、と人は言う。おそらく時間は、誰も待ってはいない。

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