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御茶ノ水の冒険~小倉さんの一言~

「梅干しって若返り効果があるんだよ」
間延びした声で隣の女性は言った。都営浅草線。五反田駅を降車して、山手線の乗り換え改札口が見えていた。
「新井くんってすごく若く見えるよね」
2つ年下の彼女は1週間ほど前に街コンで出会ったばかり。今日、初めて一緒に食事するほどのまだ浅い間柄である。記念すべき初デートは目の前の改札口に着いて無事終了のはずだった。『梅干し…?』なぜ別れ際にそんなことを? つい今までお互いにアイドル好きという共通点で話が盛り上がっていたはずなのに。案の定、改札口前で『梅干し』について立ち話に興じることになった。だが、この感覚の不一致こそが、かつて体感した街の温度や匂い、空気、焦燥感を記憶の引き出しから引きずり出した。

 8月の御茶ノ水は猛暑だった。聖橋を行き交う人達が暑さで怒っているように見える。僕は、親指と人差し指で、汗でへばりつくTシャツと胸の間に空気を必死に送り込ませた。『帰りたい…』と弱気な思考が脳裏をよぎる。だが、それではいけない。自分はこれから受験戦争に挑んでいるライバルたちに戦意を見せつけなくてはならない。直射日光に晒されながらすぐに朝に覚えた英単語を頭の中で反芻する。自習室の前でたむろしているような輩には絶対に負けたくない。負けてなるものか。ダンベル並みに重たくなった鞄を持つ手に力が入る。そんな意気込みで乗り込んだ場所に「小倉さん」はいた。

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 予備校の教室では、100席ほどが全て埋まり所狭しと荷物が置かれ、その間に学生たちが詰め込まれている。その中のひとりである僕は、両手も広げられなければ下手に椅子も動かせない。いたる所から舌打ちが聞こえてきそうなくらい居心地は最悪だ。しかし、僕は余計なストレスを抱えたくないから動じない。ひたすら、講師の板書と説明を頭の中でネットワーク化させることだけに集中した。1限目、2限目が終わる。休み時間に、ふーっと飲料水を口に含んで乾き始めた脳を潤せた。3限目の準備をしていたときのこと。「あの、ここの答えわかりますか?」問題を指す派手な色をした爪が目に飛び込んでくる。そういえば隣の席は女の子だったな。久々に他人の「顔」というものを見た(気がした)。それが「小倉さん」だ。

 小倉さんは、ひと目で鼻が高くて八重歯が印象的だと語れる女の子。科目は英語。単語を選ぶ4択問題だ。センター試験レベルの問題だったと思う。「これは③です」自信はあった。だが小倉さんは「え…でも文は過去形ですよね。何で現在完了になるんですか?」と想定外にも説明を求めてきた。「あれ?」余裕を装って自分のノートを確認するが要領を得ない。返事を待っていた小倉さんが、バツが悪そうに引っ込んでしまった。辞書を広げて自力で解決しようとする彼女の姿に自尊心が傷つけられた気がした。

 僕は勉強の邪魔になるので、なるべく人との接触は避けることにしている。それ程、余裕がないのだが今回は特例だ。超特急で講師室を訪れ金髪オネエ(?)の英語講師に回答を仰いだ。講師のタバコ臭さを我慢して僕は一言一句聞き漏らさず丸暗記して小倉さんにそれを伝える。彼女は納得してくれた。なのに…。「じゃあこっちの問題…」と、ほっぺたにシャーペンを埋もらせながらさらなる問題をたたみかけてきた。もう勘弁してくれ。僕は人に教えるのが苦手なのだ。明らかに狼狽している僕がおかしかったのだろうか。そのとき初めて彼女の表情が崩れ、白い八重歯がはっきりと見えた。

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 一日の授業が終わると、チェーンのコーヒー店で「お茶」をした。家族以外の他者との会話など本当に久しぶり。「どこの大学目指してるの?」「あの先生さ……」話の内容はほとんど覚えてない。でも19歳の予備校生らしい四方山話だった気がする。しかし2年目の浪人生活という追い詰められた自分にとっては、この心地よさに後ろめたさが確かに存在した。ただ「勉強して合格する」それが己の最大使命なのだから余計な感情を抱きたくない。彼女との会話に救われながらも同時に拒否する自分もいた。

 時計の針が何時を指していただろう。氷が溶けて味のゆるんだアイスコーヒーを飲み干すと店を出た。日が傾き夏の夕闇が街を支配し始めている。蒸し暑さを少し残すものの、汗が染み込んだ肌を癒す涼風がまんべんなく体を包みこむ。ふんわりと風に乗ったフローラルな香りが一瞬だけ鼻をくすぐった。視線を移すと小倉さんがいる。セミロングより少し長い茶髪がうなじからこぼれる。肩が丸出しのキャミソールの上から羽織った白いシャツが光って見えた。7分丈のデニムパンツにミュールのサンダルは当時の流行だったのかもしれない。
 明治高校に隣接する男坂階段を登ると、赴きある建物が持ち味の文化学院が出迎える。当時は、予備校生が自習する場所としてここが提供されていた。もう僕は日常に戻らなければいけない。群馬の高崎から来たという小倉さんは、単発講座の今日の授業が終われば御茶ノ水に来ることはないだろう。それまで無縁だった非日常の終焉。『楽しかったなあ…』物寂しさを覚えると文化学院の外壁にまとわりつく青々としたツタの葉が見えてきた。『ここで終わり』そう思ったときだ。

「ルーズリーフは何使ってるの?」
 ……今ここでその話題? 「私さ、方眼罫好きなんだけどどこかに売ってるかな?」確かに方眼罫のルーズリーフはマイナーで普通のコンビニなどには売っていなかった。大手文具店の丸善を教えると「もう勉強する?」と小倉さんが気遣ってくれた。が、僕はこの非日常を手放したくなく逡巡した。「勉強は? いいの?」小倉さんは上目遣いでまつげをそらし、少しだけ前のめりな姿勢になっている。どこでこんな目つきを覚えるんだろう…。矢継ぎ早に飛び出る小倉さんの「気遣い」が意志薄弱な僕の本性を見事にあらわにさせた。臀部の後ろで組まれた彼女の手から教材の入ったキャリングケースが尻尾のようにゆらゆら揺れる。彼女の「尻尾」を見つめながら、僕は煩悩に負けた。「うん。少しなら」ぽっかり大きな口が開いた半円状の文化学院正門の奥から流れる冷たい空気が首すじにまとわりついた。

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 「梅干しって若返り効果があるんだよ」
今、隣にいる女性に抱いた違和感は13年前のそれと同じに思えた。人生は巡る。僕はこれと似た状況を知っている。あの日、僕は小倉さんとの2度目の逢瀬を永遠に失った。
今でも御茶ノ水にある男坂階段を登るとふっと思い出す。小倉さんの一件は、浅い人生経験とデジタル空間に転がっている恋愛ノウハウ記事で何度も検証した。『話題の必然性を仮に1と仮定して…』『彼女の僕を見つめた時間 ✕ 発した単語数+笑った回数の2乗……前傾姿勢の腰の角度√π÷○△$&……』少ない脳みそをフル回転させてようやく行き着いた恋愛ほぼゼロの男の結論。『もし…』『僕と一緒にいるための口実だとしたら……』一日何十時間も勉強している人間の何とも幼稚な答え。しかし精一杯の答え。あの日はこんな吹けば消し飛ぶような細く短い一抹の期待にもすがるべきだったんだ。

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御茶ノ水駅に着く頃には日が暮れていた。明大通りに並ぶ楽器店や飲食店の灯りが街を彩っていた。そんなネオンの光が彼女の八重歯を照らす。「今日ありがとうね」何か言うべきだけど言葉が見つからない。僕は彼女の連絡先を聞きたかった。この過酷で孤独な日々(自分にとっては)はこれ以上耐え難く、逃げ場が欲しかった。しかし、人間関係が重荷になることもあると知っている僕は躊躇した。そして何より拒否されたときの精神的ダメージを考えると気が気じゃない。小倉さんが定期券を取り出す。まずい……。力の入った指先が行き場を無くし手のひらの肉に食い込む。焦燥感が胸の中を駆け巡り動悸がする。胃袋を押さえつけながら、肺の中の空気を声に乗せて押し出した。「勉強……頑張ろうね」

やっと絞り出した無情な言葉であっさり僕は日常に戻った。『小倉さんがいるから受験を頑張れるよ』……たとえ勘違いでも、それくらいの男気を持つべきだったのに。僕はそんな「冒険」から逃げた。小倉さんはにっこり笑って改札を通っていった。最後の小倉さんの記憶は、JRホームへの階段を降りる直前に手を振って笑っていた。

そして今、再びあの「冒険」が巡ってきたのかもしれない。「ルーズリーフは何使ってる?」あのとき抱いた違和感と同類と仮定するならば、僕は正しい冒険の仕方を知っている。目の前の女性は帰りたくないんだ(たぶん)。あの日、去り際の小倉さんは笑っていた。でもあれは苦笑いだったのかもしれない。たった一言から想像した推論にすぎない。恥ずかしい勘違いかもしれない。しかし、小倉さんから逃げなければ、ほんの少しだけ人生も変わっていたはずだ。これからもこの違和感は形を変えてやって来るだろう。だから、目の前の冒険は避けられない。            
【完】

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