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私たちの居場所はいつも楽園ではない。

「わたし、今はお粥、好きですよ。」一緒に泣き顔を拭いながら、マイちゃんが小さい声で言った。でもはっきりとした日本語で、にっこりと、全部を見透かして理解したみたいに微笑んで。思いが渦巻きすぎて胸の詰まってしまった私は、うん、うん、とだけ絞り出す。思ったよりも乾いた声が出た。

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マイちゃんはモン族の女の子。私たちが初めて出会った時は6歳ということだったけれど、本当の年齢は誰も知らない。マイちゃんは「記録にない子ども」だ。6歳にしてはか細くて小さくて、もっと実際は幼いのではないかと私は思った。その春は、ラオス国境にほど近い小さな町で、私たちは小さな寄宿舎で一緒に暮らしていた。当時私は長い旅の途中で、その寄宿舎に長逗留させてもらい、多少の事務や日本語を教える手伝いや日々の雑事をこなす代わりに、宿と食事を提供してもらっていた。寄宿舎は日本の市民団体の運営で、資金はほぼ寄付と創立者でかつ現場の責任者である代表の私財によって賄われていた。マイちゃんたち、女の子たちはざっと50名くらいか。

その殆どが戸籍を持たない山岳少数民族の女の子たちで、山の村に兄弟や父母がいる。でも女の子たちはその貧しさゆえに若く結婚したり、「労働力」として都市に売られていったりする。彼女たちは、いわば存在しないはずの存在なので、その先にあるのはたいてい歓楽街の仕事か性労働という境遇で、あるいは山の村に残っても、畑の重労働と細々と土産物を作って家族の生計を支えるか、という選択肢だった。

そんな状況を憂いたこの団体の代表は、山の村々を巡って、丁寧に家庭訪問をして両親を説得し、女の子たちを町の寄宿舎に住まわせて、タイの公立学校に通わせている。学ぶ機会を得た女の子たちは、みんな真剣だ。彼女たちにとってタイ語は母語ではない。それでも。文字を覚え計算を覚え本を読み努力して勉学を重ねて、バンコクの高校に進学する子もいる。彼女たちには、教育は希望のひかりだ、この生活のスパイラルを抜け出す、唯一残された手段だから。

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マイちゃんは、モン族。面倒見のいい14歳のアサマはリス族、アサマにいつも懐いているランちゃんはアカ族の子。この寄宿舎でも、学校でも、みんなほぼタイ語を使って暮らしている。学校が終わって、掃除の日課もこなしたあとのくつろいだ夕方、私たちは絵本を読んだり、折り紙をしたり、流行の歌を歌ったりして遊んだ。本当に時々だけど、そんな折、マイちゃんたちが故郷の歌や言葉を教えてくれる。本当に大事なものを分けてくれるみたいに。マイちゃんたちは、タイの学生としてどんどん成長してゆく代わりに、モン族の、アカ族の、リス族の、ラフ族の、伝統や慣習や古い物語をそっとあとに置いてゆくのだ。その変化を惜しむのは傍観者の私の感傷にすぎない。マイちゃんたちは、学ぶことによって自分たちの未来を選び勝ち取りタイの社会の一員として生きて行ける。
それでも。

寄宿舎の家事や運営全般を取り仕切っているのは、ピー・メイ(メイ姉さん)だ。ピー・メイは(タイで大多数を占める)タイ族の出身。ピー・メイは厳しいけれど、面倒見のよいひとで、文字通りみんなの姉さんだった。朝起きると、身支度をして身の回りの掃除、それから朝食。この朝食のメニューは、いつもたいていお粥だった。細かく刻んでかりかり炒めた豚肉やナンプラーの香りの揚げ卵ののった、細長い米を煮たさらさらのタイ風のお粥。これはピー・メイの故郷の味。山岳民族のみんなは、たいていむっちりと蒸したもち米が主食だ。さらさらの汁のような米には馴染みがない。寄宿舎に来たばかりの小さい子達はなかなか匙が進まない。「残さずちゃんと食べるんだよう!」ピー・メイは朗らかに言う。

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私がマイちゃんと再会したのは、それから10年近く経った東京だった。

マイちゃんはまたべつの里親制度の団体の支援を受けて、バンコクの学校に進学し、その夏休みに日本に招待されて生活費をずっと支えてくれた「日本のお父さんとお母さん」の家にホームステイしていた。東京郊外の、こじんまりとした団地の並ぶベッドタウン。サラリーマンのお父さんと、パートで図書館勤務のお母さん、そして大学生の息子さん、というご家族は、毎月の会費の支払いで、マイちゃんの10年を支えた。

「ピー」そう私を呼んで、駆け寄ってくる。マイちゃんはすぐに私を見つけてくれた。「日本の暮らしはどう?」「日本のお父さんとお母さんとは仲良くなれた?」私の問に、静かにマイちゃんが答える。今まで日本という国に対して彼女が持っていた幻想、そして現実、思い入れと、今、目にしていること。そして、急に涙声になって言う。「私は知らなかったの。」

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マイちゃんはもちろん、寄宿舎に入れてくれたあの団体に感謝していた。そのおかげで初等中等教育を無事に終えて、高校にも進学できた、本当にかけがえのない機会をもらえて、私は幸せ、とはっきりと言う。でも私には、鈍い迷いがあって言い淀む。「支援者」というお金を持った日本のシニア層がその寄宿舎の周りに移住してきて、(もちろん相応の寄付と生活費は支払いつつも)年長者や老人を敬う文化の彼女たちを、家庭内の労働力として当てにしていたことも知っているから。マイちゃんがもう村には戻っていないことも、マイちゃんの他の姉妹たちも山を下りたことも、父母にも長く会っていないことも知っているから。たぶんマイちゃんはモンの言葉や、花嫁衣裳のための刺繍を刺す伝統は、あのまま山に置いてきてしまったから。

マイちゃんの日本のお父さんは、朝5時半に起きて、身支度をしてお母さんとお粥と梅干しで質素で温かな朝食をとり、6時15分に家を出て、駅に向かい満員の電車に1時間半揺られて都心へ出て、また地下鉄に乗り換えて職場に向かう。帰宅はだいたいいつも22時半。マイちゃんの本当のお父さんは、とても貧しかったけれど、ある時から芥子の栽培をやめて、茶と米を作っていた。お酒が好きで、素面のお父さんの姿を、ほとんどマイちゃんは覚えていない。日本のお父さんには感謝はしていたが、きっと豊かなひとが少し余分にある分を分けてくれていているのだろうと思っていた。でも、マイちゃんが実際に出会った日本のお父さんは、本当に朝から晩まで働いて、お母さんは、毎日家事をびっしりこなしつつパートタイムで働いていて、ふたりの守る家は質素でこじんまりとしていた。そんな中から、毎月毎月、ふたりはマイちゃんの学費のためにお金を送り続けてくれていた。「私ね、知らなかったの。」マイちゃんは肩を震わせて泣く。「とてもうれしい。」

マイちゃんは、この夏は毎朝、日本の家族とお粥の朝ごはんと食べていると言う。頬についた濡れた髪の毛を払いながら、私はマイちゃんと食べたお粥の味を思い出していた。

私たちが今ここにいる場所は、いつも楽園ではない、それでも。もがいて生き延びて振り返るとき、それはいつも楽園みたいに見えるんだ。


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ちょっと毛色は違いますがぜひお仲間入りを。

#文脈メシ妄想選手権



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