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血を吸う樹木

私の手の中の鶏は、温かだった。
血がけっこう滴ったのを、全部鉢に受けて、私はそれを大切なもののようにてのひらの中に包んで持っていた。その鉢もまた、まだ温かい。きれいないろ、確かにそう思った。

そこで、目が覚めた。夢の外では、雨が降っていた。

私は、少し身体を起こして窓の外を眺め、また毛布を手繰たぐり寄せ、潜る。隣では夫が本を読んでいた。静かにページを手繰る音が、規則的に響く。私は彼の足にぴたりと、自分のつめたい足をのせる。起きたの?振り向かずに、彼は言う。答えずに、私はまた沼のような眠りの底に引きずり込まれた。

そうしたら、夢を見た。
昔の夢。東アフリカの、とある街で暮らしていた頃の。

私は、雨を見ていた。轟々と音を立てて降る熱帯の驟雨しゅうう。シャワーのように降り注ぐ、眩しくひかる雨。ブーゲンビリアの花に、バナナの青い葉に、パパイヤの木に。

にわかに。空が少し明るさを増し、風がいだ。これはもうすぐ雨の上がる兆候。「もう雨が止みますよ、マダム」。急な雨に振り込められて、市場の軒先で途方に暮れていた私たちは、ほほえみ合う。小雨になったら、帰ろう。米、赤い乾燥豆、トマト、緑のバナナ(蒸すと芋のような味になる)、シャロット、イソンべ(煮込んでシチューにする芋の葉)、ビーナッツの粉(調味料になる)、パイナップル、人参。それらがみっちりと詰まった重い麻袋を軽々と持ち上げて、庭師のテオがタクシーの後部の荷室に積んでくれる。それに今日は鶏を2羽。明日の来客用に。まだ、生きている命。

私が買い物かごをさらっている間に、鶏をほふるのは、私がやっておくからと、テオはいつもそう言ってくれるけれど、私は傍らで手伝いをする。熱い湯をたらいに用意してから、鶏の首を落とし、しばらく血抜きをする。そうしたら湯につけて、羽毛をむしる。内蔵を取り出すのは、私の役目。小さな出刃包丁を使って。こうして手の中にあった命は、食べものになった。

テオは、マシェットと呼ぶ平坦な斧を使う。この素朴な日常の道具は、ひゅんという小さな唸りとともに、あっさりと鶏の頭を胴体から切り落とす鋭利な刃物だ。テオの肩には、深い傷の跡がある。かつてのあの日、その素朴な日常の道具は、多くの人を殺した凶器となった。

記憶。フェリシティが私に語る。

「生き残ったのは、家族の中で、私だけでした。姉たちが先に殺されました。男たちが、何度も何度も、マシェットで切りつけて。私は、その刃を背中に受けて倒れました。私に襲いかかった男は、私がそれで息絶えたと思ったようでした。姉の身体の陰に隠れるようにして、私はじっと息を潜めました。彼女の血液がどんどん流れ出して、私の髪を、顔を、耳を、鼻を塞ぎました。あたりには、血の匂いが充満していて、私は嗚咽しないようにじっと堪えました。死人は音を立てないからです。傍らで死体となった姉たちが、最期に私を守ってくれました。」

いまだに夥しい数の亡骸なきがらが、折り重なるように積み重なる教会の中で、彼女の声は柔らかく響いた。私達の背後では、死者たちが、しんとした静寂の中、その口述を見守っている。

夢は、そこで途切れた。

目の奥に赤い色彩が残っていて、私は苦い水を飲んだような心持ちだった。起き上がって音のする方にゆくと、台所で夫がコーヒーを作っていた。「ひどい顔してるよ。」私を見とめて、にっこりと微笑む。「こわい夢でも見た?」湯気の上がるコーヒーカップを私に手渡す。いつもの私のカップではない。

「こわくはないけど、かなしいことを思い出した。」私は細に入っては語らなかった。私の鼻腔びくうの奥にはまだ、幻影の血液の匂いが残っていて、それを現実のコーヒーの香りで洗い流した。「おいで。」私は立ち上がると、彼はそばに来てちょっと抱きしめてくれる。背の高いひとの胸に、ぴったりと耳をつけると、鼓動がした。温かく生きている生命。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。