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地の果てより。

土曜日の朝。時刻は6:38。曇り。
ベッドサイドのテーブルには開きっぱなしのMacBookと飲みかけのストロング缶、隣には分厚い便箋の束。


キッチンには昨夜片付けなかった汚れた食器の山。


飲み忘れた薬やサプリメント。




こんな日もある。






上京して度々思っていたことがある。

遊び歩く分には気にしたことがなかったけれど、住んでみて思う。都内を走る車の交通マナーは思いのほか良い。これには結構驚いた。都道府県別の交通事故件数などを調べていないので実際のところはわからないが、生活していて車に危険を感じることがそうそう無い。




わたしの地元は交通マナーが最悪だが、同じように走って流れに乗らないと逆に危ない。青は進め、黄色も進め、赤は気をつけて進め。黄色でブレーキなんか踏むのは命知らずだ。

ウィンカーは出さない。よくあることだがそんな車に出くわすとつい悪態をついてしまう。車線の多い広い大通りを平気で4車線変更くらいするやつがいる。斜めに突っ切るなよ。赤信号で停車中に車線変更しようと一番前まで出てきて横断歩道でスタンバイする車も。

そしてお決まりの見切り発車に初見殺しのダンジョン。右折車線のさらに右を走るバスレーン。入り乱れた標識は意味不明すぎて役に立たない。一般道で100km近く飛ばす朝の通勤ラッシュ。タクシーのマナーも悪い。(交通ルールは守りましょう)






なぜこんな話をしているかというと、マンションのポストに自動車税の納税の案内が入っていたからだ。わたしは東京に車を持ってきていない。自分名義で親に買った車の存在を思い出す。納付書類は実家に送りつけよう。






ポストのさらに奥を覗くと、もう一つ郵便物を見つけた。




時節によくあう品のいい花柄の封筒。随分と分厚く膨らんでいる。

差出人など見なくともわかる。





なぜ家の住所を知っているのかと少し不快に思う。父づてに知ったのだろう。手紙を送るくらいなら危害を加えずに済む。





と、父も思ったのかもしれないが、あの母のすることだ。

手紙だけでも破壊力は抜群である。

もしかしたら父は、東京で暮らす娘のもとに、ある一通の破壊力抜群の手紙が送りつけられてきたことさえ知らないかもしれない。





本当は読まずにそのまま処分しようと思った。




が、先日の電話の件もあるし、ひとが嫌悪感を抱くとわかっていてわざわざ送り付けてきたのだ。相手の動向がわからないと身の危険を感じて怖いので読んだ。封を開け、幾重にも折り重なる便箋を取り出しだとき、ひらりと黒っぽいものが床に落ちたので飛び上がるほど驚いた。




何度も言うがあの母のすることだ。

コウモリの死骸でも入れてきたのかと思った。







四つ葉のクローバーの押し花だった。





床に落ちたそれは拾わず、そそくさと分厚い手紙を読む。封筒と同じ柄の綺麗な便箋に並ぶ見慣れたあの人の字。細くて、脆くて、繊細で。硬くて、力強い。



ものの見事に心がやられてしまった。



そそくさと言ったが、一行一行、言葉の一つ一つを読み上げるのがつらい。心が痛む。溢れる涙になかなか読み終わらない手紙。





不思議で仕方がない。こちらがこれだけ必死になって避けて生きてきたというのに、過ぎたことをなぜ蒸し返すのか。せっかくひとが心の奥の奥の奥底に鍵をかけて閉じ込めている記憶や感情の渦を、なぜ時々こういう形で引っ張り出すのか。






以前にも言及しているのだけど、子どもは繊細で賢い。アルバムの1ページのように記憶に鮮明に残るのだ。放たれたその言葉も、この目に焼き付いた表情や行動も、注いだ愛情も与えなかった愛情も、全てだ。その全てが一生記憶についてまわる。だから後から「あの時はごめんなさい」は通用しないと言ったのだ。




受けた仕打ちは忘れない。但し、母とわたしの決定的な違いは、いつまでも何年も前の話でも蒸し返してきては喧嘩をふっかけてきたり、ひとの傷をえぐったりする母に対し、わたしは心の奥底に鍵をかけて二度と蒸し返さない点だ。


受けた仕打ちや傷を手駒に謝罪を要求したり、それ以上の見返りを求めたりしない。



ただ距離を置いただけだ。自分の身は自分で守るため、母とわたしの確執のせいで起こる家族の不協和音を避けるため。気丈に振る舞って生きてきたではないか。



なのに母は学ばない。

何でも一番がよく、自分が一番可愛い母は、賢く、美しく、強く育つ娘に容赦なく当たり、そんな娘に注ぐ父の愛情をも一切許さず、バカラのグラスは割れ、高級なラグにワインの染みをつくり、大理石の床に散らばるガラスの破片に何度も失望した。





あの人は学ばないのだ。



手紙は、過去のつらい記憶と謝罪の嵐だった。子どもの頃に受けた仕打ちに、大人になってから受けた侮辱や屈辱まで。わたしが地元にいる頃から家を出て二度と戻らなかったこと、いまだに何ひとつ許してくれないこと、母の電話には一切出ないことにも言及していた。



そうやって同情を買いたいのか。数日後に控える母の日を前にこの手紙が届いたのは偶然だろうか。本当は心優しい娘が、手紙を読んで許してくれるとでも思ったのだろうか。和解の印に、母の日に何か贈り物が届くことを期待でもしているのだろうか。



母に対して子どもの頃から懐疑的なわたしは、彼女の行動のすべてが演技がかって見え、何か打算的なものを感じる。そういう目でしか彼女を捉えられないのだ。







実家を出て、一人暮らしをしていた家も引き払い上京をしたわたしに、帰る場所などないのだ。実家に寄り付かないのには十分な理由がある。だから家族の誰もが、わたしが帰省しない理由を尋ねたりしない。





一人暮らしを始めた頃よく言われた。「実家暮らしならお金が貯まるのにもったいない」「無駄遣い」「親のバックアップがあるのに使わないなんて」と。お金なんかより命のほうがよっぽど大事だ。心の平穏を保つことのほうが大事に決まっている。







母の手紙は相変わらず殺傷能力が高かった。


わたしの触れられたくない古傷をとことんえぐってくる。娘の人生から大切なものを奪っておいて、「心よりお詫び申し上げます」で済むと思うのか。わたしから取り上げた大切な人の人生を返してほしい。心を返してほしい。


それでもわたしはその恨みつらみをぶつけなかったではないか。物理的な距離と心の距離を置いただけだ。彼女にとって、恨みつらみを直接ぶつけられる以上に酷な方法だと分かっていたけれど。家族を守ってくれる父や、気にかけて時折電話をくれ、一人暮らしの家に遊びに来る素振りをしては妹の様子を伺う兄のためだ。自己防衛でもあった。






手紙はこれで終わりかと思いきや、最後にもう一枚添えられていた便箋に恐怖さえ覚えた。




「お父さんに辛く当たることはないですから安心してください」






怖い。怖すぎる。

いつだったかにわたしが吐き捨てた言葉を覚えていたか、と思った。執念深い人だ。安心してね、と言いながら絶対に約束を守り切ることなどない。





パンドラの箱をこじ開けられて、その一行一行、一文一文につらい記憶がまとわりついて涙が止まらなかった。









いまだに怖いのだ。

あの人がまた誰かわたしの大事な人を傷つけないか、その人の人生や心を壊してしまわないか。わたしの心臓が「父」だとして、その父を傷つけることがあったらわたしの心臓はこれ以上耐え切れないかもしれない。どんなにつよい心を持ってしても、あの人の他者を傷つける能力の方が上回る。





わたしは謝ったではないか。表面上だけでも。

「理想の娘でいられなくてごめんなさい」

「あなたの望む人生を歩めなくてごめんなさい」

と。







それでも執拗に追いかけてくるその執着心が怖い。


仮に愛情ゆえだとしても、娘に恐怖心を植え付けるくらいだ。あなたの大事な一人娘は、まだあなたの歪んだ愛情で溢れた血の海に片脚を突っ込んだままなのだ。また引きづり込まれたくない。






許しを請うのならば、わたしの人生に、大切な人を返して。あなたが潰したあの人の人生と心を返して。







手紙に書かれている通り、これが最後の手紙になることを願うばかり。


でも争いは終わらないことをよく知っている。今さら話すことなんてない。おとなしくしていてくれればそれでいいのにどうして勝手をするのか。また混乱と争いを生むだけなのに。またひとを傷つけたいのか。



理解に苦しむ。





今のわたしには、強い意志をもって自分自身と大切な人を守る選択が出来るのだ。勉強をして、良い成績を取り、常に笑顔を絶やさず、母の機嫌を損ねないことで身を守ることしか出来ない子どもではない。ちなみに母は、小学生のわたしが全国模試で1位を取ろうが、いくら先生に褒められようが、99点の解答用紙になんて目もくれなかった。完璧でないものを認めないのだ。



今のわたしは母が捻り潰せるほどか弱くない。だから、父に辛く当たるなと言った。他人を巻き込むなと言った。ついでにわたしの人生に関わるなとも言った。


大切な人を守るためなら自分を犠牲にしてでも何度でも闘う。





彼女は知らないのだ。

子どもに植え付けた恐怖が何倍にもなって返って来ることを。




「私の人生は取り返しのつかない事ばかりです」


そう綴るわりに分かっていない。筆を取っているその瞬間も取り返しのつかない事をしようとしている。手紙に綴られていた約束事を実行するのだとしたら、それはもう本当に取り返しのつかない事になる。そんなことをしてほしくて父に心の傷を打ち明けたわけではなかった。偶然その話題が出たから、過ぎた過去の痛みを思い返して、こんなこともあったっけ、でも気丈に逞しく育ったわ、という他愛もない親子の会話だ。母には無縁だった親子の会話だ。




彼女は知らない。娘の本当の恐ろしさを。

いつ頃からか、わたしはあまり笑わなくなった。外面がいいのは持ち前の愛嬌ゆえだ。


魔法にかけられた「悪魔みたいな子」の心に棲みつく闇をつついてはいけない。




娘は、あなたの人生ではなく、自分の人生を自分の足で歩いているのだ。




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