侵行性構文症候群

 動画のコメントやアニメのレビューをする時、構文に侵されてないか?とよく思う、本当に。
 構文に侵されているというのは構文を使ってコメント/レビューを書く癖がつくことで自分の思っていることを書くことより構文を使うことを優先する傾向が現れることである。簡単に言えば構文使いたがりニキになっていないかということだ。
 アニメの構文はアニメ/マンガの反応集によく使われ、ナイスマン構文やヒカマニ構文、淫夢語録はYouTubeの動画によく使われる。そして構文は思考の溝のようになって流動性を上げつつ他の方向への流出を妨げていると私は考えているのだ。
 実際構文を使うようになって明らかに発言の方向性が変わり、感想は無味乾燥、味のしないパスタのような発言だ。構文を使っている時、大きな流れの中に居る感覚があり皆と繋がっていると思える。皆と同じ所にいて同じ発言をしているというのは安心安全で心休まるひとときだろうが無個性ロボットに成り下がった人間なるも同じことであり、これからの時代は無個性ロボットに用は無い。ずっとそうしていたら脳みそ捨てたも同然、お前の頭はハッピーセットかよと言われかねないわけだ。物の詰まっていない残念なハッピーセットだ、焼却処分待ったなしだろう。
 構文を使うのは群衆どもの中にいるという安心からであると共に自分の発言に自信がないからでもあるだろう。
 私も自信はない方だ。誰かに貶されたら五秒泣いて三秒後にキレる。だからよく歌詞を使って主張をする。「今でも自信なんかないそれでも〜♪」とか丁度今の主張にピッタリじゃないか?私「群青」結構好きなんだよなぁ、という話は置いといて人の言葉は自分への攻撃を避ける免罪符になりえる、故に構文を使えば自己への被ダメを少なくできるのだ。
 被ダメを減らし群衆の中に溶け込む代わりに没個性化するのが構文遣いの末路であり、個性が必要な現代においてもはやホモ・サピエンスと変わらない。進行し侵される病で退化人類化への第一歩を踏み出す愚かしい生物が構文遣いなのだ。
 頭を使わなくて良い既存の枠組みで話すことは楽だろう。しかし、それだけでは人としてだめになる。時間をかけて丁寧に思ったことの文章化をしてみてほしい。他人の言葉で喋る時もあって良いが自分の中にあるものを定期的に外に出さないと自己が枯れていくことも忘れないで欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?