滋養強壮の涙
引っ越しの最後の後始末をしに再び千葉へ。
元同居人の引っ越しを脇目に、積み残した荷物を処分したり詰め直したりしつつ、掃除をした。
市川市、というところは千葉だけどなんとも言えない。ほんの数駅電車に揺られれば東京。
でも洗練されてなさが紛れもなく千葉である。
でも人は「なんとも言えない場所」に住むことの方が圧倒的に多いんじゃないか。
住むために作られているのは「なんとも言えない場所」の方だ。
私は『翔んで埼玉』ならFクラスの都民に、元同居人は更に奥まった真の千葉、真性千葉県民となる。
市川市に来るのだってずいぶん遠いと思ったけど、もっともっと遠くへ行く。
当日は元同居人と彼のおとうさんとおかあさんと知人のマッチョが来ていて、賑やかな後片付けとなった。
元同居人は2tトラックをレンタルしてる内に、友人からもらう約束だったバイクをもらいに行ってくると言い出した。
都心から市川市まで往復二時間。
戻ってくるから部屋で待っててとのことだった。
何だったら先に出ててもいいけど、と。
ふと与えられた二時間のエアーポケット。
おとうさんは彼と一緒に。
マッチョの知人はあらかた片付けを終え帰っていった。
私と彼のおかあさんと二人きり、何もない部屋に残される。掃除もほぼ終わってしまった。
私は次に用事が控えていたし、私がやるべきことはとっくに済んでいたので頃合いを見て失礼しようかと腰を上げた。
おかあさんにお別れの挨拶をすると、おかあさんは不意に泣き出してしまった。
「息子の居場所になってくれてありがとう」
と何度もお礼を言われた。
私が誰かの居場所になるなんて、思い付きもしなかった。
なれていたのかはわからないけど。
その言葉は私の罪悪感に滲みた。
地方に付いていく体力精神力の自信がなかった私。
何でもいいから付いてきてくれ、と言わせられなかった私に。
こちらこそ、こちらこそ、と私も何度も頭を下げる。
あんまり泣くので、もらい泣きしそうになるのをグッとこらえる。
それを45分ぐらい続けていたら元同居人とおとうさんは戻ってきた。
結局全員で部屋を出た。
おかあさんは母親にしかわからない切なさをいつも胸に秘めていると思うと胸がキュッとした。いつも気丈に振る舞っている人だから。
そういう涙だった。
その後弱りまくっている先輩の元へ向かう。
一人では動かせないテーブルを動かすのを手伝いに。
先輩も私も非力なので自信がなかったけど、非力と非力が力を合わせればテーブルは動く。傷も付かず、怪我もせず。
それだけでも感動した。
悲しいことを思い出してしまう物が例えばぬいぐるみやアクセサリーのような、軽くて生活必需品ではないような物なら、簡単な話だ。
でも家具のような毎日目に付いて使わざるを得ない物がそうだった場合、どれだけしんどいか私は良く知っていた。
しかも一人で動かすことができない無力感たるや。
そして何度か一人で動かそうと試してみてやっぱ無理だった時の途轍もない疲労感も。
悲しいことがあって弱りに弱っていた先輩は、はじめの内は思い出してひょろひょろと泣いていたけど、段々と仕事の話になると目がキラキラと輝き、言葉はリズムを伴って発された。
テーブルを動かし、念願の仕事机のセッティングが完成すると嬉々として私に仕事で使える豆知識(?)などを教えてくれて、二人で弾むようにハイテンションになってしまった。
そして散々弱って食べれなくてやつれた先輩はその夜なんと焼き肉を食べた。
すごい。
人が復活していく様をまざまざと目の当たりにできたのは本当に貴重な経験だった。
明らかに会った時と別れ際では輝きが違った。
私には、他人に頼れない真面目で優しい友人が多い。
こちらからきっかけを作らなくては絶対に頼ってはくれなかっただろう。
思い切って来て良かった。
微量ながら他人の役に立てたなら、それは私の栄養にもなる。
いつの間にか引っ越しでクタクタだった筈の私の疲れも吹っ飛んでいた。
二人の女に泣かれた奇妙な一日だったけど、その涙は美しくて滋養に満ちていた。
私はたっぷりとその栄養をいただいて、幸せに満ち満ちて眠る。
いい体になりますように、と祈りながら。
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