死への恐怖
今回の投稿は死や事故を扱います。苦手な方は読まない方がいいと思います。
皆さんは死に対してどのように考えているだろうか。
私は死ぬのが怖い。とても。今生きているということはいつか死が来るということだ。その時私の意識はどうなるのか。私の体はどうなるのか。そして、私が死んだ後も世界は続いていくというのがとてつもなく怖い。
そんな風に考えていたら、昨日、私の足の下で1人の人が亡くなった。京成本線 お花茶屋駅での人身事故だ。京成線では珍しく、かなり長時間の運転見合わせが続いたので困った方も多いのではないだろうか。
私は先頭車両に乗っていた。警笛が聞こえたと思ったら運転席でドンと鈍い音が鳴り、足元でバキバキッ、ガガガッと骨が砕ける音がした。振動は車両の床を通じて私の足にも伝わってきた。
私たちは自分の体を持っている。栄養を摂取して運動をすることで体を育て、学んで知識を付けてさまざまなことを考えている。しかし、この体もステンレス鋼の塊に90km/hでぶつかれば散らばり、28tの塊に潰されれば骨もろとも粉々になる。
1つの死を考えればそれはとても悲惨であり、恐ろしく、とても大きな出来事だ。しかし疫学研究、わかりやすく言えば医療統計において死は「数」として扱われる。例えば、2023年5月までの我が国でのCOVID-19による死者数は約7,500人だ。
私が講義を受けた医師の先生は「 n の数は命の数だ」と言っていた。しかし表で見る7,500の死よりも、足を伝わって感じた1つの死の方が大きく感じる。
自分の死はさらに恐ろしい。でも、私も死んだら表の中の大きな数の1つとなるのだろうか。
前回の投稿で書いた、私に新たな価値観を与えてくれた女性。彼女に死は怖くないのかと尋ねたことがある。彼女は「怖くない。今死んでもいいと思うくらい人生を楽しんでいるし、一生懸命生きている。」と言った。この回答が、私が彼女に惹かれた一番の理由だったのかもしれない。
私は死の恐怖に怯えながら、死ぬまでに何かを大成させることを目指して生きている。それに対して彼女はいつ死んでもいいように、今この瞬間を人生の一番輝いている時として生きている。おれもそんな風に思える人生を送りたい。そう思って彼女に傾倒したのだろう。
正直なところ、彼女といると死の恐怖は和らぐ。死に向かって生きていくこの人生で、その恐怖を和らげてくれるパートナーが欲しい。だがこれではプラスを求めるのではなく、マイナスを小さくすることが目的の消極的な関係性だ。そしてこの考えがパートナーに対する依存を生み出す。
必要なのは死の恐怖を和らげる関係ではなく、いつ死んでもいいようにこの人生に輝きを作り出すことのできる関係なのかもしれない。