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文京区、吸血鬼、窓辺にて。

ごきげんよう、期間限定です


 先日、図書館にて探し求めていた『ユリイカ2018年7月号 特集=バーチャルYoutuber』を借りることができた。2018年のバーチャルYoutuber観や未来への展望が多くの著者によって書かれている。今は2023年であるため2018年との比較が楽しい。


 その中で一つ気になる文章があった。赤月ゆに『バーチャルなバーチャルと、ノット・バーチャルなバーチャル』だ。ピクシブ百科事典からの引用になるが赤月ゆにとは

1000年以上の時を生きる吸血鬼であり、知的で落ち着いた雰囲気が特徴的。2018年4月の下旬頃から、TwitterやYouTube等のサイトに動画投稿を行う。

動画投稿を始めたきっかけは「ちやほやされたい」という理由から。
その理由ならば他の手段で良い気もするが、彼女曰く、迂闊に外出すれば日光に焼かれて死んでしまうし、目立ってしまえばヴァンパイアハンターに狙われて生命の危機に陥ってしまうのだ。

「赤月ゆに」「ピクシブ百科事典」
〈 https://dic.pixiv.net/a/%E8%B5%A4%E6%9C%88%E3%82%86%E3%81%AB  〉
(閲覧日2023/10/27)

 現在はあまり動画を投稿していないが、数年前までは本の紹介や現在の流行を豊富な知識で説明する社会派?Youtuberといえるような活躍をしていた。

要約 


 とりあえず氏が書いた『バーチャルなバーチャルと、ノット・バーチャルなバーチャル』の内容を要約して説明する。

 氏は「バーチャル【virtual】」という言葉を辞書で引くと、バーチャルとは本来《仮想的。虚像》(広辞苑)《①(名目上はそうではないが)実質上の、事実上の、実際上の ②虚の、仮の》という意味であり、そして多くのバーチャルYoutuberを自称する人々はこれらの辞書的定義の中の《仮想的》を採用していると指摘している。
 そのことを前提として自身に対して「バーチャル」という単語が用いられることに対しての疑問を述べる。

しかし・・・では、私の元に「バーチャル」という単語が断続的に飛んでくるのはどういうことなのだろう?
 私はバーチャルではない。
 そして、バーチャルを自称したこともない。
私は東京都文京区のマンションに住んでいる。日用品はセブンイレブンで買い、書籍やゲームはAmazonとヨドバシ・ドット・コムで買う。映画を観たいときは新宿に行き、ピカデリーかTOHOシネマズ、バルト9の三択だ。

赤月ゆに「バーチャルなバーチャルと、ノット・バーチャルなバーチャル」
『ユリイカ』第50巻(第9号)、2018、113頁。

 氏は自身に対してリプライなどで自身がバーチャル、つまり仮想的であることを突き付けてくる存在を映画『マトリックス』に登場するモーフィアスに例え、「インターネットモーフィアス」と呼びつつも、誰もがなんとなくバーチャルという言葉を使っているのだろうと推測する。
 そして多様化するバーチャルYoutuberはキャラクター的つまり仮想的でありながら明確な人格を持つことが多く、またリプライやコメントをすれば返信がある(=仮想的ではない)、各々のキャラクターとしての消費も様々であり、一概に「バーチャル」という単語の元に集約されていないものがそのままインターネットでは飛び交っていると説明する。
 氏はインターネットでのバーチャルYoutuberという言葉に含まれる「バーチャル」の用法は三種類に分けられるという。

 ①現実では中年のサラリーマンだが、バーチャルでは十七歳の女子高生、など「現実身体との対比(仮想の”ガワ”、あるいはアバター)の意味でバーチャル」である場合。
 ②電脳空間やサイバースペース(仮想空間)に住んでいたり、当人もAIや電子存在であるといった「世界観、空間、人格や出自がバーチャルである」場合。
 ③現実との対比構造もなく、独立した人格・世界として成立しており、世界にも人物にも仮想性は認められない(例えば未来や過去、異世界からこちらに通信しているといった形のもの)が、「実写人物ではない2Dイラストや3Dモデルだからバーチャルである」場合。

赤月ゆに「バーチャルなバーチャルと、ノット・バーチャルなバーチャル」
『ユリイカ』第50巻(第9号)、2018、115頁。

 ①、②に対しては「バーチャル」という言葉を投げる正当性があるとしつつも、③に対してはそれは「バーチャルであると受け手が判断しているに過ぎない」可能性を指摘している。相手が自称しない限り「バーチャル」という言葉を投げるのは相手の独立人格性・世界を認めながらも、「相手側がバーチャルでこちら側がリアル」というメタ的な、視聴者側が上位だという構造を作ることになるのだという。この構造の行き着く先を、氏はモーフィアスである視聴者に観察されていることを知りつつも道化を演じつつけるしかない『トゥルーマン・ショー』であると述べる。

仮に、私たちの住む世界が実は神の創った箱庭で、神は私たちに話しかけてきては被造物として扱うとして。仮に、神が私たちを面白いかどうか判断し、評価するとして。
 精神は耐えうるのか?

赤月ゆに「バーチャルなバーチャルと、ノット・バーチャルなバーチャル」
『ユリイカ』第50巻(第9号)、2018、116頁。

 氏はこのレベルで物事を考える方が少数派と自身を説明しつつも「バーチャル」という言葉は歪みを生む可能性があり、ある種の板挟みに陥っている事例もあるのではないか。「バーチャル」という言葉を再定義か見極めが必要な時が来ているのかもしれないと〆る。


本文《この文章は論考ではなく【考えたこと】です》 


 要約する文章を読んでバーチャルYoutuberが何故自身が「バーチャル」であると言われることに対してここまで表明するのかと疑問に思った人が多いと思う。要約していて私も混乱した。それはピクシブ百科事典にもリンクが貼られているが、氏が自身がバーチャルYoutuberであることを否定しているからだ。

 これはメタ的な視点となってしまうが、つまり『バーチャルなバーチャルと、ノット・バーチャルなバーチャル』とは赤月ゆにの中の人、所謂魂は「赤月ゆに」というキャラを演じきったある種の作品なのである。人格を持つキャラクターとして仮想と実在の対となる要素に向き合ったことには感服する。
 さて、氏の記述の中で違和感を覚えたところがある。それは

 しかし・・・では、私の元に「バーチャル」という単語が断続的に飛んでくるのはどういうことなのだろう? 
 私はバーチャルではない。 
 そして、バーチャルを自称したこともない。
 私は東京都文京区のマンションに住んでいる。日用品はセブンイレブンで買い、書籍やゲームはAmazonとヨドバシ・ドット・コムで買う。映画を観たいときは新宿に行き、ピカデリーかTOHOシネマズ、バルト9の三択だ。

赤月ゆに「バーチャルなバーチャルと、ノット・バーチャルなバーチャル」
『ユリイカ』第50巻(第9号)、2018、113頁。

 の箇所だ。そのほか「バーチャル吸血鬼」や「バーチャル文京区」というフレーズが送られてくると述べている。確かに実際に生きている上で一挙手一投足に「バーチャル+○○」と言われ続ければ嫌になるかもしれない。体験がないのでなんとも言えないが。
 しかしこの説明には致命的な問題がある、それは「吸血鬼がこの世に存在しないこと」である。もちろんこれが超メタ的で面白味に欠けた見方であることは理解している。だが(一般的に言われるなかで)吸血鬼は存在していないし、私が文京区で吸血鬼を見たこともなければ、目撃情報も聞いたことがない。私としては仮想と実存のジレンマは理解できるが「赤月ゆには吸血鬼である」ということが《仮想的》であり、「バーチャル」であることに繋がってしまう。というか多くの人がそうなのではないだろうか。
 とはいえ多様化するバーチャルYoutuberの中でニンゲン(34歳)サラリーマンみたいな人も出てくるのかもしれない。そういった際は確かに「バーチャル職場」「バーチャル飲み会」「バーチャル上司謝罪」などのワードを投げかけるのは些か配慮が足りていないのかもしれない。
 私は「バーチャル+地名」などの言い回しについては少し面白味を感じられる。もちろんバーチャルYoutuberからしたら身元の特定を防ぐための言い回しだが、これは我々が異郷の知り合いと話す際に「地元のコンビニで~」と厳密な場所を述べないことに似ているなと思った。特にこの話から発展はないのだが。
 まとめると赤月ゆに氏の文章は「赤月ゆに」というキャラクターを巧妙に演じつつもバーチャルという言葉や実存に対して深く迫ったものである。しかし文京区と吸血鬼という氏が持つパーソナリティのミスマッチが仮想的にさせてしまっていることが気になってしまうのである。
 2018年にこの文章は書かれた、そのため2023年現在ではもしかしたら氏の述べた問題に直面しているバーチャルYoutuberも存在しているのかもしれないなどと思う。


っていう文章を書いて投稿しようと思って書いていたら、書いている途中(2023/10/26)に赤月ゆにが10月31日で配信活動を終了することを発表した。信じて欲しいんだけど、引退に乗じた閲覧数稼ぎとかではない。信じて欲しい。『ユリイカ』を図書館で借りて読んで書きたくなったから書いているだけ。信じて。


《参考文献》
赤月ゆに「バーチャルなバーチャルと、ノット・バーチャルなバーチャル」『ユリイカ』第50巻(第9号)、2018、112頁ー116頁。

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