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社会的マイノリティに対する視座について

以前友人数人と飲んでいた時、話の流れから、トランスジェンダーなど性的マイノリティの人のステレオタイプの話になった。
そこで私が、「私にはゲイの友人も、バイセクシャルの友人もいるが、彼らにはそのような特徴はない」と発言をした。

すると、私の向かいに座っていた友人Aが「エッ!いるんかい」と引き気味に茶化したリアクションをした。 


その瞬間、私の胸にズキッと刺すような痛みが走った。

そして同時に、これが、性的マイノリティの人が日常的に感じている痛みの一端なのだろうな、と思った。

 

友人Aの「いるんかい」という発言には、「(そんな友達が)いるんかい」という文意が含まれている。そしてその省略された(そんな友達が)の部分には、その発言をした際の友人Aの引きつった笑顔、茶化そうとツッコミ風の口調で誤魔化そうとする空気、それらを鑑みても性的マイノリティに対する差別的な視座が背景にあることは明白だった。

 私自身はストレートだが、自分を持っている人が好きでそのような友人を選んでいった結果、友人の中に性的マイノリティがいたり、世間一般の価値観に照らし合わせると「変わっている」と思われがちな友人や、他にはない個性を持った個性的な友人が多い。性的マイノリティの友人たちは、性的にマイノリティであるというだけで皆普通の人間であるし、何も怖いことなんてない。私にとっては、数ある友人のうちの数人という認識だ。

 

  以前読んだ大原扁理さんの本に、「人は皆、誰しもマイノリティの部分を持っている」という言葉があった。

この言葉は、私の大好きなフレーズだ。生きる上で大切にしている言葉でもある。

 今回は性的マイノリティを題材にしたが、性的マイノリティに限らず様々な「マイノリティ」は世に溢れている。いわゆる社会的マイノリティというやつだ。

 例えば私は元通信制大学生だが、通信制大学は生涯学習目的で学んでいる社会人や中高年が主な学生層であり、「社会人のための大学」という認識が大学側にも強くある。
そのため、かつての私のように現役の大学生の年齢で通信制に在籍している者は数が少なく、私自身は「現役の通信制大学生」という社会的マイノリティの属性を持っていた。

そのために、初対面の自己紹介の場などでは大抵大学名や肩書きについて突っ込まれるが、私がなぜ通信制に在籍しているのか、その経緯を話せば一発で理解してくれる人がほとんどで、偏見によって日常生活に支障が出るなどといったことは幸い何一つなく日々を送れていた。

しかしごく稀に、通信制という肩書きや大学名を知っただけで私のことを決めつけ、知ろうとせずに差別的な言動を取り続けてくる人もいた。これは、「偏見を持ち、決めつけ、知ろうとしない」ということだ。

冒頭で、性的マイノリティの人が感じている痛みの一端を感じたと他人事のように書いたが、種類は違えど社会的マイノリティとしての痛みは私自身も知るところにある。

 

冒頭の性的マイノリティの話に戻ろう。

友人Aにとっては、性的マイノリティは出会ったこともない異端の存在なのだという。

 もしかしたら、身近にいないから(あるいはいても友人Aにカミングアウトしていないから)知らないだけで、未知の存在に対する懸念や恐怖などがあるのかもしれない。
また、今の時代の価値観をあまり知らずに、前時代的な価値観のまま生きているのかもしれない。

 いずれにせよ、知らないからといって、知らないものを否定してはいけないと強く思うのだ。

 知らないことを否定したがる人間というのは世の中に一定数存在するし、それは人間の本能的な性(さが)なのかもしれない。
それでも、決めつけずに知ろうとする姿勢は相手が誰であっても必要であるし、ある程度知っている相手に対しても「知り続ける」姿勢でいることはすごく重要なことなのだ。なぜなら、絶えず変わっていくものだから。

 

 社会的マイノリティに対する差別的な視座は、いずれ自分自身にも向かう矛となろう。

受け身で思考停止した姿勢の先には破滅しかない。

 

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