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「伝統は大事だ」の理由を私はまだ見つけていない。 [エッセイ]


なぜ理由を考える必要があるのか

 私たちはよく、「伝統は大事だ」ということがある。決してこれは右派や保守的な人たちの政治主張の文脈で使われるに留まらない。理由は不明だが必ず挟まなければならない工程、あるいは学校の意味のなさそうな校則、あるいは私たちが普段生きる中で何気なく「常識」や「マナー」としてもっているもの。その多くが合理性ではなく、歴史的な文脈(決して数百年単位の歴史である必要はなく、数十年でも歴史的と言えるだろう。)から生まれ長年使われてきたことに、用いられている理由がおかれている。
 つまり、私たちは常日頃から「伝統」を守って生活していると言えよう。私がこのことに着目したいと思ったのは、「元号は使いづらいから廃止しよう。」という趣旨のツイートを見かけたからである。確かに、西暦と比較しても元号は使われる機会も少なく、その使う場面でも「さて、今は令和何年だったかな?」と不便に思うことは私もある。まさに合理性より伝統がよく用いられている場面だと言えるだろう。

 それでは、これらの不便な「伝統」は無くすべきなのだろうか。私個人の感情の面から述べると、少なくとも合理的でないから無くす、というのは若干過激で単純すぎる考え方なのではないか…と考えている。実際のところ、このように思っている人自体は多くいるように感じる。しかしながら、なぜ伝統は大事なのかを合理的に説明せよ、と言われて説明できる人はどの程度存在するのだろうか。
 多くの場合、この説明のためには「昔からあるならわしだから。」だとかの伝統であることそのものを理由とした説明がされるように思える。あるいは、「伝統をおろそかにするのか!」というように怒られることもあるかもしれない。どちらにせよ、このような説明は不十分なのである。この説明はほとんど単純な「個人的な感情」で処理されてもおかしくないものであり、万人を納得させる説明としては、不十分である。だからこそ、なぜ守る必要があるのかを考える必要がある。

軽視することへの否定

 私個人としては、先述したように「合理的でないからなくす」というような、いわば伝統の軽視には賛同できない立場にある。少なくとも、伝統自体を軽視してよいとは言えないという点をここでは述べる。

  1. 社会における普遍的な価値観や、考え方、物事の捉え方があることは決して不利益ではない。私たちが日ごろから守っている法律は、決して昨日今日で誕生したものではない。「他の人を殺してはいけない。」「他の人のものを盗んではいけない。」などは昔からある程度一貫して社会がもっていた理念である。これらのある程度の普遍的な価値観があるからこそ、私たちの社会は一定の平穏を保つことができている。つまり、伝統自体がここでは社会の規律を守ることに貢献していると考えることができる。

  2. 伝統には昔からの合理性が含まれている場合がある。建造物などに関して言及すると、例えば東京スカイツリーには五重塔が参考にされているとのことだ。この論理の場合、合理性を肯定しつつ、伝統を肯定することは可能である。一方で、非合理的と言われる伝統自体を保護することを否定することにもつながりかねないために、一概によい論理とは言えない。

  3. 学問的観点から伝統を捨て去ることはできないと言える。私自身は歴史が専門であるが、他にも民俗学やその他の学問分野においても、実際に見て観察することのできる伝統があることは、とても有益である。解像度の高い研究は、より現代を理解することにつながる。過去の出来事や価値観は現代にも大きな影響を与えているため、これを理解することは重要なことである。

  4. 一度無くせば取り戻すことは容易ではない。伝統とは、長い年月をかけてその社会に定着したものである。そのため、一度排除した後にそれをもう一度定着させることは難しい。特に排除の理由が合理性であったならば、それを復活させることは大きな困難となるだろう。これは伝統を守るべき、ということの理由にはなりにくいかもしれないが、しかし少なくとも「慎重であるべき」ということの理由にはなるだろう。

これらの理由は、ざっと考えて出てきた理由である。少なくとも、軽視していいわけではないことの説明にはなったのではないだろうか。しかしながら、これらに当てはまらないものであれば、では無くして良いのかと言われるとそれはまた違うようにも感じる。もう少し、考えていく必要があると思う。

軽々しく「大事」だとすることの問題点

 ただ軽々しく「古くて昔からあるから大事」とすることには問題点がある。例えば奴隷制は昔からあるが、現代では人権の価値観が台頭したことで禁じられるようになった。実際に私たち自身も、そういった制度は間違っていると認識しているからこその現状になったわけである。あるいは、つい数十年前までは当たり前であった女性の軽視などについても同様のことが言える。これらの事例は、決して伝統だからといって無条件に肯定し続ければよいわけではないことを示している。
 これらの制度や価値観が否定されたことは、決して合理性だけが原因ではない。公民権のように、歴史上の民衆の主張や活動によって得られたものもある。ある意味ではこれらの一新された価値観も一つの伝統と呼ぶことができるのかもしれない。どちらにせよ、全てを守り続けること自体には問題があることは確かなのである。

私たちはどうするべきなのか

 この記事の見出しにあるように、私はまだ結論にたどり着いていない。一つ言えることは、これらの伝統を扱う際には十分慎重になり、時間をかけて様々な視点から考えることが重要であるということだろう。単純な見方や考えは多くの場合、他者からの賛同を得られなかったり、その後に大きな問題を残すことがある。
 伝統とは、それまで歴史が紡いできた物語の、最新話である。合理性だけを優先してこれを無くしてしまう事は、どうも惜しいように感じる。どうか伝統を論じる際には、合理性だけでなく過去の人々が紡いできた物語にも目を向けてみてほしいものである。

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