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Steinskiインタビュー 1/3

今回はSteinskiのインタビューを翻訳しました。

翻訳元の記事↓

それではいきましょう。

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イ: あなたが真剣にレコードをディグし始めたのはいつ?

S: おれが最初に有り余るほどの収入を得ることができた仕事は広告のコピーライターだった。そっから泣く泣くレコード屋を通り過ぎるんじゃなくて、本腰入れてレコードを買うことができるようになったんだ!
そのころNew Yorkのダウンタウンに住んでて、おれの家の上にとてもホットなクラブがオープンしたんだ。Mudd Clubっていうクラブね。そこはニューウェーブ、パンキッシュなダンスクラブだったよ。全方位の音楽がかかってた驚くべき場所さ。これはDJとかより前の時代の話だよ、ダンスクラブでかかってた音楽はかなり狭いカテゴリーさ。ロック、オールドファンク、すべてがあった。"Yeah man, ここでかかってるレコード全部欲しいぜ!" って感じだったよ。それくらいワンダフルだったのさ。だからおれは2週間に一枚レコードを買い始めた。
それから2枚、3枚となっていってタガが外れた。おれは一度に25枚のレコードを買うようになった!これはCDより前の話。レコードはそんなに高くなかった。ポップス一枚で5~7ドル。おれがレコードに費やす金は一年に5000~7000ドルだった。とにかく量を買ってたってことだね。まずリストを作って、レコード屋に行く、リストを埋めていくってことをひたすらやってた。

イ: そのリストと知識はどこから来ていたの?

S: リストはいつもおれの頭の中にあったレコードだよ。すっと好きだったやつとか、たまたま聞いていいと思ったやつとか、なんかで読んだやつとかね。音楽のレンジを広げるためにいろんな文章を呼んでた。おれの好みがロックからオールドファンク、ヒップホップに移ったとき、ブレイクの価値に気づいたんだ。レコード屋に行って45のレコードを買うんだ。

そのときおれは広告エージェントとして働いていた。食品を売ってる生協でDJもやってた。そこは古いヒッピーコミュニティーに根差している場所でもあったんだ。今でもあるよ。おれは200~300人のヒッピーのいるところでDJをしていた。とても良かったな。だってオールドヒッピーはノリがいいからさ。でも彼らは15分より長くなると踊らない。ラップミュージックをプレイしたらいい感じだったし、最後の15分間いくつかオールドロックをかけるんだけど、最後の最後にJames Brownをプレイするんだ。
その後おれは "Okay, 今だ!アフリカもの!" って感じになるんだ。グレートだったよ、楽しかったし。彼らはDJタイプのジャズを予想してなかった。片方のレコードの終わりに次のレコードの始まりをブレンドすると、大騒ぎだよ。これはターンテーブリズムが確立される前の話だ。ハウスクラブに行ってる人間はいなかったから誰も連続的なミックスなんて思いもしなかった。おれからすればすごく良かったたんだ。

イ; カットアンドペーストがヒッピーたちに届いたってことかもね!あなたがDJを始めた年のことを思い出せる?

S: 奥さんと離婚したときぐらいだね。1980年のどこかだね。

イ: マジか、奥さんがあなたのもとを去った理由ってもしかして...

S: (笑)No no no, 音楽とは全然関係ないことだよ!彼女は別れた後もダンスに来て楽しんでた。"レコードにハマりすぎね、もう愛想が尽きたわ、さようなら!" とか "OK, 一生やってろ!" なんてことじゃない。

イ: スポークンワードレコーディングがあなたのコレクションを過度にフィーチャーしてるね。

S: おれが子供の頃からずっと没頭していることなんだ。だっておれの親が持ってた78回転のコメディレコードで、今でも暗唱できるよ。おれがグッときた人々の声のリズムに関するなにかがあったんだ。もうさすがに興味はないけどね。そのレコードが言ってることがつまらないってわけじゃない。Buddy Hacketの古いコメディレコードね。Coralの78回転オレンジレーベルね。これが最初のレコード。後にカットアンドペーストの影響としてリストアップしたよ、本当に好きだったBuchanan and Goodmanとかね、彼らはコメディーと音楽のコンビネーションが良かったし、クレイジーな叫びがレコードに入ってたんだ。おれが再びレコードをまじめにコレクションするようになってまたハマったんだ、20年くらい前ね。いつもそのことを考えていたし、そういうレコードをいつも買ってた。これらのレコードがおれが買った他の音楽にフィットしたかどうかなんてどうでもよかったね。もしフィットしてなくてもどうでもいい。

(Steinskiは自身のお気に入りのスポークンワードレコードとアーティストのリスト: JFKレコーディング、US子供向けテレビプレゼンター Sandy BeckerとShari Lewis, コメディアン Jerry Clower, Albert Hoffman, パフォーマンスアーティスト Ruth Draper, Malcom X 役者 Jerry Stiller and Danny Hoch Steinskiは the Bishop of the Archdiocese of New Yorkの性教育レコードや獣医向けの犬の心拍音レコード、Amos and Andyのステレオのコンセプト説明レコード〈白人俳優によって黒人のステレオタイプを笑いものにしたもの〉、といった所有するスポークワードレコードに没頭する。これらは未来のディーラーコンベンションのためにプレスされた、リストに関する話はもっとあるがエディット上割愛する)

イ: Steinski, あなたがスポークンワードのドンだよ!DJ、熱心なコレクターとしてね。カットアンドペーストをやり始めたのはいつ?

S: Well, おれはいつもBuchanan and Goodmanのことを知ってた。6,7歳の頃からジュークボックスで聴いてた。ジュークボックスは音楽を聴く方法のひとつだったからね。そのころ聴いてた曲を覚えている。その後ミックステープを作り始めたよ、自分でつぎはぎしたスポークンワードをね。だけどRoxyとNegrilみたいな宗教的な熱気ある場所に行き始めたのがちゃんとしたスタートだね。おれがラジオコマーシャルの企画やプロデュースをフリーランスでやってたんだ。仕事相手のひとりにDouglaas DiFrancoがいた。おれらは意気投合したし、彼が働いてる時間はスタジオの機材を自由に使うことができたんだ。だからおれらはそれを利用して多くの時間をそこで遊ぶことに費やした。おれは "Hey man, ラップミュージック聴いたか?" って感じだった。彼はこう言う "No, おれはダンスミュージックにハマってるんだ" って。だからおれは "本当か?いつかRoxyに行こうぜ" って言うんだ。こうして彼と一緒にRoxyに通い詰めるようになっていった。

Douglasと働いていたCBS(もともとTommy Boyの広告)のプロデューサー(David Witz)が "お前たちはこのコンテストにエントリーするべきだ" って言った。それがTommy Boy主催のリミックスコンテスト。おれらは "Yeah, わかった。出るに決まってるだろクソッタレが" って言った。というのもおれらは常に少しふざけていたからね。おれらはサンプラーと二台のドラムマシーンを借りてやりまくったんだけど "よっしゃレコード作るぜ、これ絶対ヤバくなるって" とはならなかった。土曜の朝から夜中までスタジオで作業したよ。日曜の昼間に再びスタジオに戻ってきて夜遅くに仕上げるんだ。おれらは完成させたテープをコンテストに送って6,8週間後だよ、おれらが勝ったことを知ったのは。典型的なのんぼりTommy Boyスタイルだよね。そしてそれがおれらがやった最初のこと。

だけどおれがDouglasと組んだアドバンテージを忘れてくれるな。彼だけがそのスタジオの技手じゃなかった。しかしレコード会社で長い間コマーシャルを担当していた。60秒のコマーシャルを手掛けていて、Eaglesの新曲から5, 6カットぐらい使ってた。他にもいろんな曲を使ってたよ。彼らは「Hotel California」をかけてさ。ファーストカットが始まって、その5~10秒間のコーラスを聴くことができた。それからEaglesのニューアルバムだよ。裏側ではこんなことが起こってたんだ。新曲がビートに乗って "Available in stores … May 14th … BLAM" って感じでさ。わかるだろ?

Douglasは堂々としたもんだったよ。8トラックマシーンでレコードを使ってたな。いつもそんな感じだった。まるで水を得た魚みたいに彼は活き活きしてた。彼は必要とあらば2トラックテープで曲を仕上げるぜ。エディットだって作っちまうよ。実際に彼はやったよ。おれはこのミックス制作に6箱のレコードクレイツを彼に見せた。おれはバカみたいにレコードを買ってたからね。おれらはスポークンワードレコードにリアルなフィーリングがあった。"あれをやって、これやってみようぜ" って感じでさ。それが大幅に "尖ったもの" になったんだろうな。"Oh, Humphrey Bogartをかけろ!Houdiniサウンドだ!" って感じ。Douglasはそれを聴いて "Yeah yeah, ここに置いておこう" ってなる。最高だぜ。おれは "おれはこいつに賭ける" ってなったよ。
おれは自分のレコードを雑にプレイすることは無かった。だけどおれは何がフィットするのかという感覚だけはあったんだ、"このまま行こうぜ!この部分をループするんだ" って感じでね。Douglasはというと "Yeah, 行けるぞ、こいつを加えるぜ" って感じ。そうやって20分ぐらいでできた。それが作業風景。

イ: レコーディングのことをもっと詳しく教えて。

S: レコーディングテクニックはとてもシンプル。それらは今でも健在だよ。ただプロフェッショナルなスタジオではお目にかかれないぜ。Dougalasが持ってた8トラックテープレコーダー、一台のターンテーブル、いくつかテープマシーンと一台ミキシングボードがあった。おれらは曲をひたすら重ねていった。毎回移り変わりを作らないといけない、次の2曲にスウィッチするんだ。

イ: 間違いないね。だからあなたはテープを切り貼りするんじゃなくてマルチトラックを主に使ったんだ?

S: その通り。少しはテープも使ってるけどたくさん使ったわけじゃない。"さぁリピートエディットをやろうか、boom boom boom boom よし次のセクションに行こうか" と言うようなレコードミックスをやってなかったんだ。
おれらの作品はより多面的で重層的だ。おれら二人の最高のコンビネーションだよ。Douglasの繊細さとものすごい技術専門性さ。おれは座りながら腕を振って "Wow, こいつは絶対に来る、やろうぜ!" ってやってたね。自発的に説明し始めていないよ。おれらは自分たちに矢印を向けていたってことさ。
アイデアなんてほぼなかった。おれらは3枚のレコードの制作に取り組んでいた。The Lessons, 普段どう自分らがオープンにしようかということだけを考えてたんだ。2つ目におれらはたくさんJames Brownのレコードを使うってことをわかってたよ。だけどとてもいい風に働いたよね。"これがおれらのやり方、何が起きるのか見とけ" って感じ。たまに制作するってなったらまだそういうマインドだよ。

イ: Tommy Boyのコンペティションにどうアプローチしたのかを教えて。

S: おれらはそれをコマーシャル仕事のように考えていた。5分以内でレコードのミックスをいっちょ作るってね。これが根底にあった考え。

イ: これはリミックスなのであってメガミックスじゃないってところも面白いよね。

S: そうだね。でもおれらなりの最高なことなんだよ。

イ: 「Lesson One」はビッグラジオヒットだったと言ってたね。だから当時のディスコエディットとコネクトしたり... 

S: でもおれらはDisconetとかすべての曲に関する知識がそこまでなかったんだ。おれはラップクラブに出入りする広告コピーライターだった。Douglasは同じくラップクラブに出入りするスタジオエンジニアさ。おれらはプロフェッショナル、セミプロフェッショナルの作品にそこまで関心を持ってなかったんだ、Douglasは最終的にDisconetの秘書と結婚したのにね。

イ: あなたは立て続けに「Lesson Two」「Lesson Three」を企画したの?

S: 「Lesson Two」には1,2週間かかったね... Douglasはよく覚えてるはずだ。おれらは一緒にBrooklynの大きなアパートに引っ越した後に自分たちのスタジオでこれらのミックスを制作したのさ。そのスタジオには8トラックマシーン、2トラックマシーン、レコード、ターンテーブルとかね... それ以上は必要としてなかった。
「The History of Hip Hop」のミックスをオファーされたんだ。"これやってくんない?「Dance to the Drummer's Beat」を使ってさ。だってこいつはビックディールだぜ?" とかそんな感じ。おれらは "Yeah, solid, いいアイデアだね!" って感じ。この仕事は1,2か月かかったよ、仕事の合間を使ってスタジオに通いまくったよ。そうやって「Lesson Three」を仕上げたんだ。わかるか?みんなが "これって法律的にどうなの?" ってなった最初の曲でもあるんだ。「Dance to the Drummer's Beat」の権利を所有してるHerman Kellyが "Yeah, おれは大金が欲しいぜ" って具合にね。基本的に全くの理不尽なリクエスト。これがミックスのカギだった。"Uh, わかった。このミックスはちゃんとリリースしないよ" って感じ。

以上です。
続きは来週アップする予定です

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