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雨天決行(創作小説メモ用)







        雨天決行










     第一章  雨







────────「雨が上がった日には世界の欠片が落ちているんだよ」
ある日、君と雨上がりの道を歩いていた時に僕の隣でふと呟いた。
「世界の欠片?」
「足元を見てみなよ」
僕は言われるがまま足元に視線を落としてみると、そこにはたしかに鏡のように晴天の空を映し出す水溜まりがあった。
突き抜ける青と全てを包み込む白がバランス良く描かれているその水溜まりは、まるでこの世界の破片が確かにそこに落ちているように見えた───────


「えー明日雨かあ」
君はそう言うけれど、僕は雨が好きだ。
雨は心を落ち着かせてくれる。雨が降った日は家でゆっくり読書をする。雫が滴り落ちる音がなんとも本と相性が良い。

 予報通り、次の日は雨が降っていた。身支度をして、傘を持って僕は玄関を出た。
幼馴染なのと、家が近いという理由から毎日一緒に登校している君の家に向かう。
君とは幼稚園からの付き合いで、小中と同じ空間で過ごし、高校も家から近いからという理由で同じ高校を選んだ。
進路を選ぶにあたって本当にそこでいいのかと幾度となく聞かれたが、僕の意見は変わらなかった。しかし本当の理由は君と離れるのが怖かったからだ。読書に没頭し寡黙になった僕にとって、心の許せる人間は君しかいない。それを手放すことが自分の進路のレベルを上げるよりも遥かに大切で怖かった。
そして僕は高校一年生になり、今高校生活初めての夏を迎えようとしている。

 僕の家から徒歩三十秒で着く君の家は、雨のせいか少し寂しそうに佇んでいた。
 君の家の前に着くとインターホンを鳴らした。
「すみませーん」
「はーい!今行くよー!」
インターホンを鳴らすとすぐに君が出てきた。インターホンを押すとすぐに出てくる君が、まるでボタンを押すと出てくるジュースみたいでなんか自販機みたいで滑稽だった。
 玄関から出てきた君は傘では無くレインコートを着ていた。もし君ではなく他の誰かだったらツッコんでいたが君のことだから突っかからずにいた。
昔からこうだった。
差すだけという手間の少なさが売りの傘を選ぶより、手間をかけてでも精一杯動ける体でいたいというのが何とも君らしいと思う。
「なんで雨降るのー。雨なんて降ってもいいことないのにー」
「そんなこと言うなよ。雨にもいい所あるじゃん」
「雨のどこが良いの?」
「雨が降ると気分が落ち着くんだ。家で読書するにはぴったりじゃんか」
「本なんか読まないし私にとっては良い所にはなんないもん。晴れて気持ちが良い方が何倍も楽しいよ」
 雨の良さを知らないなんてもったいない。
かといって、僕も外にいる時に降る雨は困る。誰だって濡れるのは好きじゃない。
傘を差すだけで手の自由が縛られて、太陽が影ることで歩く意欲も無くなる。
水溜まりを踏んだ時はとことん付いてない。
その日は一日中止むことはなく降り続けていた。
授業が終わり、帰りのホームルームを済ませると僕のところに席が三つ前の君が駆け寄ってきた。

「ごめんね!今日補習で残んなきゃ行けないんだ。先帰っててもらっていい?」
手を顔の前に合わせて精一杯の謝罪の意を込められたら許す以外の道が無い。
雨が降っている。一人で帰る道は心做しかどんよりしていて、どこか楽しくなかった。
 家に帰るとまず濡れた靴下を脱いで洗濯かごに投げ込む。ここで不快感はおさらばだ。やっと雨から解放される。
床に残る濡れた靴下の後を通り、誰か転ばないか、あらぬ心配をする。
 僕にも家族とコミュニケーションを取るくらいの積極性はあるから脱衣所から出て階段を上ってリビングに向かう。
残念なことに今家にいるのは僕だけだそうで、昨日の読みかけだった小説を自分の部屋のベッドから持ってきてリビングのソファに腰掛けた。
昨日は読んでいる途中で眠くなって寝てしまったから、僕の寝相に巻き込まれて本の表紙に少し皺が出来てしまった。
ただ最初は新品で綺麗だった本が、読んでいく内に手に馴染んでいく感覚が僕はたまらなく好きで、本に皺が出来るなんてことも愛おしく思えた。

部屋からタブレットとベッド脇にあるサイドテーブルを持ち寄って、ソファに上手くはまるようセットした。半年前に買ったベッドの脇に置く用のサイドテーブルが実はソファとも相性が良いことに最近気付いた。サイドテーブルの骨組みが上手くソファと床の間にある空間にはまり一体化することで、まるでソファの上にテーブルが浮いてあるような感じになる。
タブレットをサイドテーブルに乗せてお洒落なカフェで流れてそうなBGMを流す。
雨が窓に当たる音と相まって心地良い。せっかくの雨だから、暖かいミルクティでも注いでこよう。最近買った、中に空間があり空気の層がある事により暖かい物を注いでも冷めにくくなっているという機能的なグラス。絶妙な丸みを帯びていて機能面だけでなく見た目もかわいい。お気に入りのグラスだ。
本を片手に暖かいミルクティを飲む。外には大好きな雨音と僕の側で奏でるお洒落なBGM。なんと至福なひとときなんだろう。
僕だけの静かなパーティの始まりだ。



気付いたら時計の針は夜の七時を回っていた。この空間が心地よくてつい長めに読書をしてしまった。
君は今頃家に着いたのだろうか。相変わらず雨は降っている。
無事帰れたのかなんて他人のことはどうだっていいのに。心配性で自己中というまるで正反対な性格を持つ僕は、どうやら君のことを頭の隅で心配をしてしまうらしい。
そんな思いもつゆ知らず君は水溜まりをジャンプして避けて僕なんかより雨を楽しんでいそうだけど。
そんな奴には失敗して転んでしまえばいい。


君にはまるで僕の昔の頃を鏡のように映しているかのように感じる。
ずっと無邪気で、何事にも積極的で、間違えながらも進んでいく。
傘を差す僕に対して、レインコートを着て走り回る君。
家で本を読む僕に対して、補習で先生に間違いを正される君。
誰にでもやんちゃな過去はあるけど、大人になるにつれ、やがて落ち着く。
「丸くなったね」と言われるのが落ち着いたね、と言われているのかつまらなくなったねと言われているのか、僕には分からない。

子どもの頃の感性をそのまま引き継げたらどれだけいいことだろう。
なぜ君はそんなにはしゃげていられるのだろう。子どもの頃の感覚をそのまま覚えているのだろうか。時々羨ましくなる。
なにかと昨今では問題を美化しようとする。多様性を謳い、「大人」であろうとする。
面白くないものに対して面白くないと言うと、「これを作った人がいるんだからそんな事を言うな」だとか「面白いと思う人を馬鹿にしている」だとか、周りを伺って自分の意見を出さずにいる人がちらほらいる。
 そんな中で、君は雨が好きな僕の前で「雨は嫌いだ」と言う。
僕はそんな君が羨ましい。自分のことを第一優先にして、周りを考えない子どものように君はまず自分の意見を言う。
だが、それでいいと思う。わがままで良いと思う。人に迷惑をかけた分、人からかけられた迷惑を許してやればいい。
 そんな当たり前のことを出来てない人間がどれだけいるか。全ての世界が君みたいな人でできていたらどれだけ過ごしやすいか。

「雨が上がった日には世界の欠片が落ちているんだよ」
ある日、君と雨上がりの道を歩いていた時に僕の横でふと呟いた。
「世界の欠片?」
「足元を見てみなよ」
僕は言われるがまま足元に視線を落としてみると、そこにはたしかに鏡のように晴天の空を映し出す水溜まりがあった。
突き抜ける青と全てを包み込む白がバランス良く描かれているその水溜まりは、まるでこの世界の破片が確かにそこに落ちているように見えた。
まじまじと覗き込もうとした僕はいきなり背中を押されてバランスを崩した。
危うく落ちそうになったが最低限の運動により蓄えられた体幹と何としても落ちまいとする心意気によりなんとか耐えることが出来た。
僕を水溜まりに落とそうとした犯人は悪びれる様子もなく笑った。
「ね?言ったでしょ?世界の欠片が落ちてるって」
君のその感性は一体どこから繰り出されるのだろうか。神様が上から告げたようにしか思えないその素っ頓狂な発想は何にも縛られない子供のようだった。
君には押した罪を謝って欲しかったが、それを見れた事に感謝してひとまず僕はここを許した。




『花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に』
古典の先生が黒板に指を差して言った。
「この文の意味分かる人ー?」
誰も手を挙げなかった。単純に分からないという理由とこの静寂を破る勇気が出ないという集団心理に襲われて、僕達は手を挙げることは無かった。


── 桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思いふけっているうちに。 ──
先生が黒板に書いた字を見て僕もノートにそれを書き写す。
「この短歌の注目すべきところは掛詞にあります。古典でいう花というのは桜を意味します。花の色は桜の色のことを指しますが、ここでは女性が持つ美しさや若さのことも意味します。
うつりにけりな、とは色が褪せり衰えることですが、最後に感動の助動詞の『な』を付けることで色褪せてしまったなあと物思いにふける様子を表現しています。
世にふるというのは、この『世』は文字通りの世代という意味ともう一つ『男女の仲』という意味も持ちます。そして『ふる』は雨が降るの『降る』と時間が経つという意味での『経る』を掛けた言葉となっています」

日本という長い歴史の中で、こんなにも素敵な感性を持った人が居たという事実に僕は感銘を受けた。きっと酷く寂しかったのだろう。時間が経つにつれてどんどん色褪せていく花と私。どちらが先に朽ちるかなど考えたくもないことを考え思いにふける。とても寂しい歌だと思った。

その後も先生は説明を続けた。
「最後に『ながめせしまに』ですが『眺め』とは物思いという意味と長雨という二つの意味を持った掛詞で、『物思いにふけっている間に』と『長雨がしている間に』という二重の意味があります。どれも大切なのでノートに目立つよう書いておいてください」
黒板に今説明したことの要約を書き、大事なところに黄色のチョークで線を引いて「ここがテストに出るから忘れないように」と生徒にそう呼びかけて先生の説明は終わった。

小野小町という平安時代に生きた人の短歌であった。
彼女は世界三大美女とも言われていた。
平安時代の美しさの感性が今の僕と同じかは分からないが、その時代は容姿ではなく感受性や教養の深さで優劣を付けていたのではないかと思う。
この時代にも雨に対して趣きがあると考えていたのなら、少しは僕の考えと重なるところがあるかもしれない。
雨が降った日は家でゆっくり読書をするという何気ないことが、何千年も昔からあったのなら、それは美しいことだと信じてそのバトンを繋げたい。
小野小町の短歌のように歴史というのは星の光のように伝わる。
地球に届く光が数億年前で、その星を観測すると既に消滅していることがあるように、ある時放たれた「出来事」が歴史として人に伝わる。だが人がそれを歴史と捉えた頃には既にその出来事は終わっていて、我々は残された歴史という過去の光を大切に持ち続ける。
この和歌だって、僕に届くよりか、届く頃よりもずっと昔に小野小町はこの世を去っている。
ただ人の想いというのは残るらしく、何千年経った今、この歌は僕の胸に届き、長い時を重ねてこの僕と感性が重なり合うことでこうして僕の心に響いている。
過去の人が置いていった感性を、僕という遠い未来の一人の人間が拾いあげ、大切に抱えて過去を振り返り現在と繋げる。
過去と未来を紡ぐ人の感性という物は、それぞれが管のようになっていて、繋がって初めて歴史というものを見通せるようになる。
それはまるでタイムスリップしたかのようにさえ感じさせる






     第二章 中間試験






中間試験が二週間後に迫ってきた。教室に着くとクラス全体が少し焦り始めていることが周りの空気からひしひしと伝わる。
「今日スタバで勉強会しない?」
「いいね!」
「提出物出した?」
「出してない」
「おれ成績やばいかも」
「まじ終わった」

口を開けばテストや課題のことばかりだ。テストで気が落ち込むのも分かるが、あんなものは覚えたものを型に書き込むだけで覚えてしまえばなにも緊張することなんてない。

教室の廊下側の一番後ろに位置する自分の机に荷物を置いて席に着き、今来ている人たちの顔ぶれを確認した。教室を眺めつつそんなことを思っていた僕のもとに、前の方から見覚えのある顔がこちらに駆け寄ってくる。
わざわざ遠くから目を合わせても居心地が悪いので来ているのは分かっていても敢えて目線は下に向けていた。
「ねえ、勉強教えてもらってもいい?」
次第に君はやって来て僕にそう言った。
「どこが分かんない?」
「・・・・」
バツが悪そうな顔をしてこちらを見る君を見て、長年付き添った経験から僕は全てを察した。
「分かった。全部教えるから今日学校が終わったら僕の家に行こう。家に色々参考書とかもあるから合わせて教えるね」
「お〜。頼りになるね〜。さすが私の幼馴染。よろしゅう頼んます」
わざとらしく眉を上げてあたかも誘いに乗ってやるというような表情だった。
君が分かりやすすぎるだけだ。
嘘だけは付けない君の性格は僕が小さい頃からずっとそうだった。
「今日は幸い親も帰ってくるの遅いから気兼ねなく出来るよ」
「やった〜!たくさん遊べるぞ〜!」
「遊びはしないよ?」
「ちょっとだけ!勉強ばっかしてたら頭悪くなっちゃうよ」
「その発言が頭悪いわ」
「うるさい。もう授業始まるから席戻るねー」

高校一年生という青春真っ只中で、幼馴染とは言え自分の家で女子と二人きりで勉強するという状況が僕にとってはわくわくした。
その日、学校が終わってから僕達は僕の家に向かった。

僕の家に君が来たのはいつ以来だったか。小学生の時に一緒にゲームをしたり、友達を数人呼んでクレープを焼いてみたり、僕にとって眩しい程輝いていたあの頃が今となっては懐かしい。
いつから来なくなってしまっただろう。


「お邪魔しま〜す……」
「いらっしゃい」
本当に誰もいないか伺うように小さく縮んでいる君はどことなく懐かしかった。
昔もこんなんだったっけな。
誰もいないと確信した君は水を得た魚のようにまたいつもの姿に戻った。
「わ!このハムスターの置き物懐かしい〜!まだ置いてるの?」
「うん。どかす理由がなかったからね。もう十年くらいは置いてるね」
「うひょー。私より長生きなんじゃない?」
「今いくつだよ」
「何歳だっけ?」
「手で数えてみな」
「指十本しかないから数えらんないや。指貸してよ」
「自分ので二回やればいいだろ?」
「はっ!その手があったとは。。。。手だけに」
「はあ」
「どうしたの。お手上げですか?」
「家上がらせないよ」
「うっ。それはだいぶ痛手ですな」
「昔からそういうのだけは長けてるよな」
「え?私の言葉遊びが上手だって?これはお手柄ですなぁ。まあ人には得手不得手が……」
「帰れよ」


玄関からこの調子で果たして僕の部屋に辿り着くのだろうか。
いつまでもここにいるわけにはいかないので、僕は無理やりにでも手を引っ張って玄関から抜け出してやった。
「あっ……。」
「ほら、さっさと行くよ。靴はあとで俺がやっとくから先に部屋行こう」

柔らかくも芯があるその君の手には少しの手汗と熱を帯びていた。ちらっと見えた君の表情はわずかに赤らんでいたが、玄関に長時間いたせいで暑かったのだろう。
この後部屋に入ったらエアコンをかけてあげよう。

そうして僕達は僕の部屋がある二階へと上がり、部屋に入った。

「ほほ〜これが男子の部屋ですかあ」
「内見しないでください」
「お家賃はいくらで」
「いくらもないです。部屋なので」
「なんと!無料なんですか!」
「そういうことじゃないです」
「嘘ついたって、、、、ことですか?」
「嘘じゃないです。あなたの見当違いです」
「ふーん。難しいですねぇ」
「そうですねぇ」

昔からこんなことを数え切れないほどやっていた。考えるとかよりも前に自然に言葉が出る。
昔から遊んだりしてると価値観が似通うように出来てるのだろうか。

一緒にふざけたり失敗したり、時には何かをやりとげたり。そういった経験が小さくも長く、高く積み重なり今のこの価値観になっているのだと思うと、僕にとって君は最高のパートナーだと思う。こんなに気が合う人は生きていてそういない。というか会ったことがない。なんなら会える気がしない。

そんな僕の人生の運を使い果たした賜物が今僕の部屋をくまなく漁っている。
変なものは無いけれど、あまり良い気はしない。かといって止めるのも何か違うと思って気の向くまま漁らせておいた。

「へぇ。本棚こんなぎっしり詰まってる人初めて見た。昔から読書好きだったっけ?」
「いや、読み出したのは中学二年生とかからだよ。学校の課題で読書感想文を書くってなった時にお父さんからおすすめの本を教えてもらった。はまったのはそこからかな」
僕は自分よりも身長の高い本棚のたくさんある内の中から読書を始めたきっかけとなる一冊を摘み取った。

「これが僕が読書を好きになったきっかけの本だね」
「あ!題名は聞いた事ある。映画化もされてなかった?」
「そうそれ。ちょうど本を薦められて読み終わったくらいに映画が決まったからお父さんと見に行ったんだ」
「へぇー。そんなここまで本を好きにさせるその本って一体どんな内容なの?」
「まあ簡単に言えば余命系の恋愛小説だね」
「悲しいお話なの?」
「悲しいってよりかは考えさせられる内容だったな。命とは何かって、僕は今何故生きてて、命の価値は時間によって決まるのかとかそういう誰しも直面する生きる悩みとか死についてよく考えさせられる内容だった」
「むむむ。命の価値かぁ。考えたこともなかったな」
「貸そうか?多分すぐ読めると思うよ」
「いや、読みたくなったら借りにくる!今はまだその時じゃない。他にもやりたいこといっぱいあるんだー」
ああ女子高生って忙しい、と嘆いて自分の腕を交差させて自分を抱きしめた君を見て僕は本棚にそれを仕舞った。



家に来てから四十分程経ってから勉強会は始まった。
僕が普段使っている勉強机に座ってもらい、横から僕が指導するような形だった。
初めに数学から手を付けた。どうやら文章題が苦手なようで、そこから教えることにした。
まずは図を書くこと。文字に置き換えて考えること。それが出来たら問題の意味を噛み砕きつつ式を立てること。この三つが数学の問題を解く軸になるという風に教えると、楽しそうに図を書き始めた。
「なーんだ簡単なことじゃーん」
「難しく考えないことも大切だからね」

苦手な勉強でも楽しそうに学ぼうとする君の姿勢は僕にとっては眩しかった。
いつも自分の部屋で一人で自習をして、教科書やネットのサイトとにらめっこをしてる僕だからこんなに楽しそうにやってる人を見たことが無かった。
何事にも一生懸命でかつ楽しくあろうとする君の姿は僕の一人篭って勉強をしていた暗い部屋を明るく照らしてくれた。

問題を解く君の姿を後ろから眺めていた。肩まで伸びた髪は艶やかに光を纏い、綺麗な白い肌は僕が今までに見たどの参考書のページよりも透き通っていた。
一生懸命問題を解く君を見て、楽しさの中に真剣さを据えたその表情が僕の目を引き付けた。
そんな真剣な表情は今まで見たことが無かったから、君もそんな顔をするんだ、と驚いた。それと共に何故か置いていかれたような気もした。
子供だと思っていた君にそんな一面があったなんて知りもしなかった。
第一印象という言葉があるように、もし第二印象があるのなら僕はそれに気付けているだろうか。僕が見てるのは君の第何印象だろう。

「これで合ってる?」
「え、ああ。合ってるよ」
「ん?どうしたの?なんか髪にゴミでもついてる?」
「あ、いやなんでもない。自分の部屋に他の誰かがいるのが慣れないってだけ」
「ふ〜ん。ならまあいっか。続きやーろう!」


それから文章題をいくつか、二次方程式の問題を数問解いて次の科目へと移った。
その前に君の体力が尽きそうだったから一旦休憩を挟んだ。

「づーがーれーだー」
「おつかれさん。疲れたでしょ」
「も〜体力が一ミリもありません。某モンスターゲームだったら一瞬で捕まえられてる」
「体力減ってなくても捕まえられそうだけどね」
「お主殺されたいか」
「ごめんなさい」
「お詫びに何か持ってきなさい」
「何がいいでしょうか。一緒に見に行きますか」
「うむ、悪くないな」

僕は亭主と化した君を連れてリビングに出た。
台所の奥にあるお菓子が入ってる箱を取り出し、何か良さそうなものがないか物色してみた。

「クッキーあるよ」
「クッキーは軽すぎる〜」
「食パンは?」
「それはおかしじゃない」
「あ、そうだ。この前おばさんからもらったフィナンシェがあったな」
「それだー!」
「食べる?」
「食べる!」
そうして僕達は部屋にフィナンシェと麦茶を持ち寄って休憩タイムを取った。
既に時計の針は夜の七時を指して、辺りも暗くなっていたが、夏至も近かったためまだ外の景色も見えるほどの暗さだった。
ここから休憩をして、また始めるとなるとやっぱり帰る時間が遅くなってしまう。いくら家が近いとはいえ、君にも君の事情があるだろうしそこまで遅くやるわけにはいかなかった。

「暗くなってきたし、休憩したらもう帰りな」
「ん、まだ数学しかやってないよ」
「まだ日にちはあるから大丈夫。明日は来れる?」
「いける!放課後少し職員室寄ってくからそれ終わったらいいよ」
「分かった。じゃあまた明日続きやろっか」

フィナンシェを口に頬張って「は〜い」と気の抜けた返事をした、子供のようないつもの君の姿を見て僕は少し安心した。
その日君を家に帰した後、僕は敢えて散らかった部屋のまま過ごした。
さっき食べたフィナンシェのゴミと、教える時に使った裏紙の計算用紙が机に散らばったまま君の残像を残した部屋に僕は入り浸った。
部屋を片すことでまた一人になるのが怖かったのだ。君のいた痕跡を消すことが、僕の部屋を照らしてくれたあの光の残像をぱたりと消して、再びあの暗くて一人ぼっちの部屋に戻りそうで、僕はとてつもない不安に襲われた。
君は今何をしているんだろう。僕の部屋とは違って明るくて暖かいんだろうか。
自分の部屋でこんなにも独りぼっちで寂しく立ちすくんでいることは無いんだろうか。
君が僕の部屋に来るまで、こんなに僕の部屋が暗いことも知らなかった。自分の部屋に一人でいることがこんなにも寂しいことなんて知らなかった。
 一人でいる寂しさより二人でいない寂しさの方が大きいなんて知らなかった。
僕は君を必要としている。僕の暗い部屋には君のとびきりの明るさが必要だった。
散らかったこのゴミ達も明日になれば余熱も無くなり更に虚しさを増すことになるだろう。

その日、完全に夜が深まり外の光が消えるのを待ってから、僕は部屋の照明を全て消して真っ暗闇の中散らかったゴミを捨てた。
何も見えないため手探りで机のゴミをかき集めた。そうするしかなかった。独りぼっちで寂しくて暗い部屋を外の闇と同化させて誤魔化すしか出来なかった。一日の中で一番暗い時間に少しでも明かりがあると僕の部屋の方が寂しくなってしまう。

部屋を片付けた後、ベッドに潜った。寂しさからギュッと耐えるように目を瞑り、布団に包まり、何度も君のことを考えた。
幼馴染で幼稚園からずっと一緒にいた君のこと。こんなにも僕を照らしてくれていたなんて知らなかった。この感情は何だ。分からない。いや、分かっていたのかもしれない。分からない振りをしていたのかもしれない。
何度も君のことを考えた。何度も、何度も。
分からない振りをしていた。憧れて付いていって、追い越したと思ったら置いてかれて。
それでも君を追いかけることを諦めたくなかった。


僕は君のことが好きだった。


玄関で手を引っ張った時の柔らかくも芯のあるあの感触も、子供のように楽しそうに学ぶ君の姿も、真面目に問題と向き合う君の表情も、少しわがままだけど憎めない君の性格も。全てが僕にとって愛おしいものだった。
僕を明るく照らしてくれる、僕にとって必要なものだった。君がいなかったら僕は独りぼっちで寂しいこの部屋でずっと生きていかなければいけない。僕にとって君は僕以上に大切な存在だった。
「はあ」
それでも僕は君に何が出来るだろう。君みたいに元気は無いし、ユーモアも無いし、運動も出来る訳ではないし、卑屈だし、おまけに顔もかっこよくない。
君からもらったものをどうして僕は返せるだろう。
答えが見つからない自分に対してどうもやるせない。こんなにも自分に腹を立たせるのは初めてだった。
この宛のない感情をいつか晴らせるのだろうか。もし晴らせた時が来たら、一体僕は何が出来ていて、君は何を思うのだろうか。
そんな事を考えている内に僕は眠りに着いていた。


それから二週間後の試験までの間、補習がない日以外は僕の家で勉強会をした。僕も君に教えることで良い復習になり内容もかなり定着した。
試験当日、いつも通り君を迎えに行ってから学校に向かった。教室に入ると普段とは違う出席番号順に並んだ席を眺めた。
「ん〜!本番って感じがするねえ」
「緊張してる?」
「ぼちぼちかなあ。そっちこそどうなの?」
「僕は、、、緊張してるかな」
「え〜意外。こういうの緊張しない方だと思ってた」
「いつもならね。今回は高校初めての試験ってのもあるし、君に教えたことがちゃんと伝わっているかが心配」
「それで今緊張してるってこと?」
「まあ、そんなとこ」
もしこれで君が点数を取れなかったら僕のせいだ。一年生の一回目の試験は簡単な問題しか出ないだろうけど、それでも自分の説明でちゃんと伝わっていたのかが不安だった。

今日の科目は国語、英語、数学の順番だった。
幸い試験では教えたところがしっかりと出題されていた。
僕としても教え甲斐があったし、君も手応えがあったようだった。

「はーい。解答用紙後ろから回してー」
担任の先生が予鈴と共に呼びかけた。
今日の全てのテストが終わった。湿気付いた解答用紙を前の人に渡し、一息ついて周りを見渡した。満足気に足をばたつかせる君の様子を見て少し安心した。

「ねえねえ、私テストできたよ!百満点点!」
嬉々として僕にそう近付いてきた君に、僕は無事教えられたという達成感と密かな恥ずかしさを抱いた。
僕はそれを悟られないように冷静を装った。
「なんだそれ。百点満点だろ」
「ひゃっくまーんてーんてーん……てん!」
「痛っ!勝手に人の頭叩くなよ」
「テストで手応えあったんだもん」
「説明なってないって」
叩かれた箇所がヒリヒリとした刺激を残したまま、僕が頭を擦りながら意味のわからない返答に答えていると、やっぱり君は悪びれる様子もなく笑っていた。

「明日の科目なんだっけ?」
「明日は化学と世界史だね」
「休もうかな」
「来なさい」
「代わりにやってくれたら来てあげる」
「なんで条件付きなんだよ」
「私も出席出来てテストも取れて一石二鳥だね。」
「いやテストやんないよ。ばれるでしょ絶対」
「いいじゃーんちょっとくらい」

いいから席に着きなよ。僕はだらけた君をあしらって席に着かせ、帰る準備を進めた。

先生が教室に戻ると帰りのホームルームを始め、明日の予定について話した。
「明日は二科目しかないから、他のテストをやっているクラスの邪魔にならないよう静かに帰るんだぞ。あと暗記科目は例年カンニングする人がいるからな。そんなことしないでちゃんと勉強してくるんだぞ」

そう言って明日の試験への注意喚起をすると、職員室から運んできたプリントを後ろへ回し、内容を軽く説明した後ホームルームは終わった。

それから翌日に化学と世界史、翌々日に日本史と生物を行い試験は終了した。
それぞれが試験の感想を言い合い、「ここができた」「ここが分からなかった」の言葉で学校全体が賑わった。


高校生活初めての試験を経験し、僕は一つの青春を消費したような気がした。
これからどれだけ試験を積もうとも今日が最初で最後の「初めての試験」でありそれを覆すことは出来ない。
これから先、こういったことがいくつもあるのだろうか。
試験が終わった後のこの空気も、出来なかったところを悔やむこの感情も、湿気で湿った解答用紙のあの感触も、君に勉強を教えたあの瞬間も、いずれは無くなってしまう。
 試験が連れてきたこれらの思い出と感情は、初めての試験ながら僕に寂しさを与えた。







    第三章 恋仇






 試験が終わっても高校生は忙しかった。
「体育祭があと一ヶ月に迫ってきている。試験が終わってホッとしてる人もいるだろうが、みんなにとって初めての体育祭になるからしっかり練習に取り組むように」
担任の先生が朝のホームルームでそう切り出すとクラスの活気も上がり、これから本当の高校生活が始まるぞと言わんばかりに皆胸に期待を膨らませ溢れる感情を口々に周りの席のクラスメイトに共有し合った。
 僕も体育祭という言葉を聞いただけで少し胸が踊った。中学までは運動会という稚拙な名前でやってただけに、体育祭と聞くと勢いがあった。改めて高校生になったのだと自分の成長を実感した。


 黒板に体育祭の競技を箇条書きで書いていく担任を横目に、僕は密かに君のことを眺めていた。
僕にはそんなにも盛り上がれるような友人もいなかった。ただ横に座っているクラスメイトと体育祭の競技項目を見てリレーが苦手だとか、アンカーは誰が走るのだろうかとかそんなことを呟くくらいだった。
実際僕は運動なんて出来ないし、リレーなんてしたら「よーいどん」で置いてかれてしまう。綱引きだってミジンコ並の力しか無いし、借り物競走なんてしたら僕の対話能力じゃ到底歯が立たない。
つらつらと黒板に競技項目が並ぶのを見て、僕はただただ自分の出来ないものが増えていくのを眺めているばかりだった。
「はーい注目」
先生が黒板の前で手を挙げて皆に静かにするように促した。
「この中から自分でやりたい競技をひとつ選んで、やりたい競技のところに自分の名前を書いていってくれ。人数の関係上一人で二つの競技に参加する人も出てくるが、そこは後で話し合いで決めるからな。クラス対抗リレーは全員出ることになってるからそこの順番もこの時間で決められるとこまで決めるぞ」

先生は黒板に
・クラス対抗リレー
・綱引き
・借り物競走
・台風の目
・騎馬戦
・スウェーデンリレー
・玉入れ
・大玉転がし
・ムカデ競走
と書いた。
僕にとってはどれも似つかわしくなくて、正直どれもやりたくは無かった。
強いて言えばムカデ競走くらいか。根暗な僕にとっては一番紛れられる競技だと思った。
じわじわと黒板に向かう人がいる中に僕も紛れてムカデ競走の隣に自分の名前を書いた。
席に戻る際に君のことをちらと見たがまだ悩んでるようだった。

しばらくして席を立った君は黒板に着きチョークを手に取った。
もう名前を書きに行く人も少なくなってきた中で、独りでに黒板に向かうその姿は僕とは違い自信があるように見えた。
君は強く繊細な筆致で自分の名前を書いた。
スウェーデンリレー。君の選んだ競技だった。
それは花形と言われるものだった。自分の名前を記して君は席に戻った。
 全員が書き終わると、希望が被った競技を振り分けるように話し合いが始まった。
それぞれが自分の希望に願をかけるように誇りと理想を抱えていたが、なんとか時間内に話し合いは着いた。
僕も君も第一希望のまま通り、少しほっとした。

競技が決まると、体育祭に向けて授業でもそれぞれの競技の練習が始まった。
練習といっても高校の体育祭は文字通りお祭りのようであって、中学校のようにきっちり練習するというよりか楽しくあることが第一だった。

僕のところは足にロープを結び、前の人の肩を組んで「せーの」の掛け声と共に息を合わせて足を動かすという練習だった。
(練習の詳細をもっと書く)
 君はバトンを渡す練習をしていた。クラスの中で地位の高い人間がそこには集まり、僕には程遠い場所だった。楽しそうにしている君が憎くて悔しかった。人の幸せを素直に喜べない僕自身にも嫌気が差した。
バトンを渡す時に触れる手が僕の居場所を否定しているようで酷く悲しくなった。僕が抗ったところで何も起きやしないし、何より僕の身に何が起こるか分からない。
僕はやっぱり明るい方には行けない人間だった。暗いところで居場所を探して、もしくはもっと暗いところにいる人を見つけては安心するような最低な人間でしか無かった。
これ以上眺めていてもあまり良い気はしないので僕は僕の競技に専念するようにした。


 それから体育祭が一週間前にまで迫ってきた。クラスの士気も上がり教室では体育祭の話で持ち切りだった。
もっとこうした方が良いだとか、こういった練習をするべきだとか、ここの順番を変えてみるだとか、それぞれが体育祭で良い成果を出すために最善を尽くしていた。
 三十五人ほど入るこの教室で皆が一つの目標に向かっているこの瞬間はとても温かかった。窓から差し込む光とどこからともなく聞こえる笑い声はまさに高校生の日常を切り取ったようで、若さが弾けるこの教室はだだっ広い地球のどこよりも青かった。青い春だった。

 練習も仕上げに入り、より本番に向けての練習が多くなった。
僕達は息を揃えて右足と左足を交互に出し、まずは躓かないようにし、より早く歩けるように足を上げる高さなども調整するようになった。場所も体育館から校庭に移り、本番で走るコースを実際に走り感覚を掴むような練習に移った。
 校庭を囲む大きなトラックではスウェーデンリレーと借り物競争に出る生徒たちが交代で走っていた。
スウェーデンリレーの生徒達が走順の位置に着き、第一走者目はクラウチングスタートの姿勢で走る準備を整えた。
よーいどんと同時にスターターピストルを鳴らす音が聞こえる。鋭い破裂音と同時に走り出すクラスメイトを眺めて誰が一番早いか自分の中で予想をしてみる。クラスでもイケてる男子はやっぱり足が速くて僕には程遠い存在なのだと、改めて思い知らされた。ああいうのがかっこいいって言うんだろうな。モテるんだろうな、と運動神経というどうしようもない力の差を付けられて、僕は心底悔しかったのと同時に絶対に追いつけない無気力感を覚えた。君もああいう人を好きになって、付き合って、手を繋いで、笑い合って、その人にしか見せない表情をして、頭を撫でられて、キスをして、相手に体を預けて……
それ以上の事を考えるのが嫌になった。君がメスの顔をして、誰かの物になっているのを想像するととてつもなく胸が締め付けられ、僕がこれから生きる未来が一気に絞られる気がする。生きる意味を失う気がする。こんなにも未来があると言われている年齢の僕でさえも、一つの希望をへし折られたらそれ以外の事を考えられなくなる。生きる希望を持てる事と年齢なんて本当は関係ないんじゃないのかな。希望を無くした人間は皆死にたくなるように神様に設計されてるんじゃないだろうか。
人間は輝かしく生きるべきだから、その輝かしさを失った人間は世界から消えるように、この地球はそう出来ているんじゃないだろうか。
 足の速いそのクラスメイトがバトンを渡して次の走者に移った。男女男女の順でバトンが渡される。百メートル、二百メートル、三百メートル、四百メートルと徐々に増えていく距離を男子と女子一人ずつで走っていく。第二走者目は陸上部の女子だった。陸上部でも短距離走を専門とする彼女の走りは無駄が無く綺麗な走りだった。あっという間に次の人へバトンを渡した。受け取った男子はこれもまた颯爽な走りで二百メートルある走路を駆けていく。
第四走者目の君もそろそろ準備を走る準備を始めて次の女子の走者が出た後にすぐ位置につけるよう、トラックのすぐ外側に立っていた。
次第に君の番が回ってきた。トラックの中に入りバトンを取る体勢を作る。全速力で走ってくる男子のスピードに合わせ君は徐々にスピードを上げた。
見事バトンを受け取った君はグラウンドを駆け抜けていく。
僕は夢中に君の走る姿を見つめていた。ムカデ競走の練習が始まったが意識と目は自然と君の方に向いていた。
この大きなグラウンドで君のことしか見えなくなる程に君の走る姿は僕を惹き付けた。
流石にこれ以上目を逸らしているとクラスメイトから注意されそうなので自分の練習に戻った。

体育祭当日。たくさんの保護者や近所の子供たちが集まり、校庭は大きく賑わった。これ以上無いくらい青空が遠くまで澄み切り、綿あめの様なもくもくとした雲もちらほらと散らばり良いコントラストを成していた。太陽がぎらつき既に汗を流す生徒がいる中、体育祭は始まった。
くじ引きで競技の順番が決まったため、僕の出る幕はお昼ご飯を食べた後からだった。
胃もたれしないように食べすぎないように気をかけなければならないと頭の隅に置きながら上級生の競技を眺めていた。
僕ら一年生とは違う団結力とごつごつとした体格の迫力があった。僕も隣に座っているクラスメイトとこれが凄いだとかあそこに入ったら一瞬で弾かれる未来が見えるだとかそんな他愛もないことを話していた。
一年生の競技もちらほら始まり、僕のクラスからも競技に出る生徒が席を立ち始めた。
僕もクラス一丸となって自分のクラスメイト達を鼓舞しようと久々に遠くに届くような大きな声を出した。同じ運動場で汗をかいて練習をした風景を見てるとどうも応援せずにはいられなかった。普段なら他人のことはどうでも良いと思ってしまう僕でもこの空気と内から出てくるこの熱に抗うことは出来なかった。今日くらいはと声を張って自分のクラスを応援した。
やがて一年生の競技も終わり昼休憩に入った。教室に戻り各々でお弁当を食べた。僕も隣の席のクラスメイトと今日の体育祭について語らいながら弁当をかきこんだ。
胃もたれしないよう気にかけていたつもりだったが、応援した疲れか太陽に長い間曝されていた疲れか、母が作ってきた弁当を軽々と平らげてしまった。
昼休憩が終わると早速僕の出番の競技が始まった。ムカデ競走だった。
司会のアナウンスに呼ばれ校庭に並ぶと同じように緊張の面をしたクラスメイト達が身を寄せあって不安を不安で拭っていた。
「本当に出番ってくるんだね」
「上手く出来るかな」
「練習したから大丈夫だよ」
「肩しっかり持ってね。緊張しなくていいよ。」
そう声を掛け合って最後の調整をした。
指定の位置に並びスタートの体勢を取る。他のクラスも同様に並び会場に一瞬の緊張が走る。

よーい、どん!

パンッと勢いよく放たれた筒音に駆り出され僕らは動き出した。声を合わせ、足の動きを揃える。練習でやったことだ。前の人の肩を持って縄で結ばれた足をせっせと動かす。ただそれの繰り返しだった。単調なこの運動にいかに合致性を求められるかが勝負の分かれ目となる。

せっせこせっせこ足を運んでいる間に折り返し地点に着いた。他のクラスも同じように着いてきている。ここで焦ってペースを早めては返って転んでしまう。落ち着いて今までのことを継続しようとリーダーのクラスメイトがそう呼びかける。それに応じるように僕らも今まで通り同じペースで足を運ぶ。
他のクラスでは僕らのクラスよりも少し前に進んでいた。リーダーとしての焦りもあったのかもしれない。ここで焦ってはいけないと自分に言い聞かせるつもりで、そう僕らに呼びかけていたのかもしれない。

ラスト十メートルのところまで来るとどのクラスも自分のクラスがいち早くゴール出来るよう熱気に溢れた歓声を上げた。
正直何を言ってるか聞き取ることは出来なかったが会場が今この瞬間だけ僕らに注目していることは伝わった。
一歩ずつ、一歩ずつ地面を踏みしめゴールまでの道を繋ぐ。会場の皆がどのクラスが1番にゴールするか目を張って見ていた。

ピー!

一着の笛が鳴った。僕らのクラスだった。
他のクラスとも僅差だったため誰が一位だったかは自分では分からなかった。

体育祭実行委員のアナウンスが校庭に響き渡り、それによって僕らは自分のクラスが一位になったことを知らされた。

僕らは顔を合わせ喜びを分かち合った。ガッツポーズをしたり、飛び跳ねて友達に抱きつく人もいた。
僕も心の中で一位という称号を一人噛み締めた。
待機席にいるクラスのみんなも同じように喜んでいて自分も嬉しくなり、少しにやりと口角が上がった。

出番が終わり待機席に着くと今度は君の出番だった。
「次はスウェーデンリレーです。競技に出る生徒はトラックの内側に集まってください」
体育祭実行委員のアナウンスで呼びかけが掛かった。席に着いていた君も腰を上げて友達と喋りながら校庭に向かっていった。
心の中で上手くいくよう応援しながら遠くから見送った僕はどこか緊張していた。
緊張すら楽しもうとする君の姿は僕とは対照的でまた少し寂しくなった。

全員が列に並んだところで再びアナウンスが掛かった。
「ただいまから行う競技はスウェーデンリレーです。一年生から三年生、全学年でバトンを繋ぎ優勝を決める競技となっております。是非ご注目ください」
体育祭の目玉ともなっている競技。クラスの中で運動神経の良い人達がクラスの優勝を掛けて競う。僕にとっても見応えがあって楽しみな競技だった。
校庭を見るとスウェーデンリレーに出場する生徒がずらりと並んでいた。一年生から三年生まで百人ほどいるだろうか。皆運動神経の良さそうな人ばかりであった。
それぞれ自分の待機場所に着き、第一走者はトラックに入り位置に着いた。走る準備が整い会場にもそろそろ始まるという空気が伝わったようだった。

会場が一気に静まり緊張が走る。
「位置について、よーい」
パンッ。
破裂音が校庭中に鳴り響き一斉にスタートする。
一年生から始まり二年生、そして最後が三年生という順番だった。
会場も大盛り上がりだった。僕らもそれにあやかって自分のクラスに声援を送る。
第一走者目の男子が軽快なスタートを決め、早速一位に躍り出た。練習ではあんなに憎かった奴が今となっては頼もしく感じる。

首位を保ったまま、出番は第四走者に迫った。君の番だ。
首位の襷を繋げてやると言わんばかりの君のその力んだ面持ちは自信と覚悟が拮抗しているようだった。
右手を後ろに差し出しバトンを受け取る体勢を取り前走者のスピードに合わせて加速をしていく。ただ、バトンを渡すその瞬間、君の手元が狂った。手から滑り落ちたバトンが不器用な動きで地面に向かって落ちていく。
ころころと転がるバトンを掴み直し君は走り出した。最悪なスタートだった。

守っていた首位の景色はすでに壊れており、前に数人の人影が見えた。これ以上差をつけられまいと必死に追い上げる君は僕の目にはなんとも哀れに映った。自信と覚悟は粉々に砕け散り、首位という重みに潰されそうな君の姿は僕にはとても見ていられなかった。
今にも泣きそうな顔で一生懸命走る。走る。
次の人に襷を繋げる。それしか考えられないような表情で、校庭を逃げるように駆けていった。観客という外側の羞恥心に耐え、クラスへの想いと練習の成果を果たせないやるせなさが君の感情をさらに囃し立てる。
なんとか次の人にバトンを渡した君は、レーンから捌けて一気に力が抜けたように座って泣いてしまった。
実行委員が戸惑いつつも泣いている君を走り終わった人用の集合場所へ案内する。

泣いている君を見て、僕は申し訳ないと思った。
優勝を目指す体育祭で君に対する身勝手な期待が君を苦しめた。首位通過というさらに大きなプレッシャーが君に降りかかり、君はそれに負けてしまった。
君は優しいから受け取った声に全て応えようと自分の体を叩いて引き締めてこの競技に臨んだのだろう。僕のたった小さな身勝手な期待のために。僕は君を泣かせてしまった。
それからというもの後の走者にはどうも気が向かず、君にどう接すればいいかそれだけを考えていた。
謝るか、いや違う。謝ったとこで君の何かが変わるわけではない。
励ますか、いや違う。励ましたとこで僕が君の心の傷を理解できるわけではない。

そんな単調なものでは無い。泣いてる人を慰めるにはどうしたらいい。僕は今の君に何が出来るだろう。

君と過ごした時間の中で僕は何を知ったのだろう。走馬灯のように流れる記憶の中で君の傷を癒せるようなピースを探した。思い返せば僕は助けられたことしか無かった。

(僕は競技が終わった直後君のもとへ駆けつけた。
君を慰めるために必要なことはもう僕の中にある。不器用でもいい。それを出して君に見せてやる。)
→まだ考え中

「ねえ、ちょっとこっち来てよ」
涙で目が腫れている君は驚いた顔で僕を見つめる。
「どうしたの?なんでここにいるの?まだ出番じゃないでしょ?」
上擦った声でそう言う君は喋るので精一杯のようだった。
「いいから。一回こっち来て」
「うん」
僕達は人通りの多い通路から避けて人気の少ない観客席の裏へと回った。

「悔しかったか?」
「うん」
「やるせなかったか?」
「うん」
「恥ずかしかったか?」
「……うん」
「そりゃそうだよな。失敗は誰でも恥ずかしいもんだからね。僕だってそうだった。覚えてる?小学生の時の算数の授業のやつ。」
涙目になりながらカラカラになった声を振り絞って君は言った。
「あったね。そんなのも」
こんな声でごめんねと笑う君を見てちくりと心が痛くなった。
そんな状態にしてしまったのは僕の方だ。謝るなら僕の方なのに。
構わず僕は続けた。
「僕は昔は今ほど本なんて読まなくてさ。本を読むのなんて大人のすることだと思ってたんだ」

その頃は小学生だったから尚更、外で遊ぶことしか知らなかったし、止まって何かをするなんて大の苦手だった。そんな中、図書館で本を読もうという授業で行った際に「算数の歴史」という本がその時の僕には輝いて見えた。
数字の起源から算数の応用まで、その本には分かりやすく載っていた。
その当時僕が習っていた足し算引き算とまだ習っていない掛け算の面白い記事がそこには載っていた。

僕にとってはまだ習ってない掛け算をそこで知った時に自分だけ先に知っているという優越感と周りを差し置いて先に知ってしまったという少しの罪悪感を噛み締めた。
僕はその後その本を借りて教室の机の中にしまっておいた。

そして算数の授業で掛け算が出てきた時に、僕は「やっと来たか」と心待ちにしていた掛け算に嬉しさを隠せないでいた。
机の中から「算数の歴史」を取り出し、黒板と照らし合わせるように見比べた。
掛け算が生まれた起源や由来などが書いてあり、それを見ている内に先生が書く板書に一つ一つの意味が浮かび上がりとても興味深い板書に感じた。

それから算数の授業が始まる度にその本を出しては黒板とにらめっこをして掛け算の楽しさに一人悦に浸っていた。
しかし当時の僕はその本を机の上に隠そうともせず、思いっ切り出していたためすぐに先生に見つかってしまった。
怒られるかと思ってはらはらしていると、先生は興味深そうに僕の本を覗いた。
先生は「勉強の入口は何も授業からじゃない。自分の好きなことからでも良い」と伝えてきた。だが、この教室という空間において僕の存在は算数が好きな人というレッテルが貼られた状態にあった。僕はそれが恥ずかしくなり机の上にあった本を机の中にしまった。それが先生の狙いでは無いことは幼い僕ながら分かってはいたが、周りの僕に対する期待感がどうも背負いきれなかった。
今思えばその期待感というのはどうも身勝手だったと感じる。
その後先生が掛け算の例題として少し難しい掛け算の文章問題を黒板に書き、僕を当ててきた。授業も少しずつ難化していったため、今の僕にとってはとてもじゃないが解ける問題では無かった。
黒板の前に立ち、掛け算の問題を解く僕を見るみんなの視線は完全に「算数ができる人」というレッテルが貼られたかのように感じた。

僕にとっては掛け算の問題など練習してはいなかったし、掛け算の歴史を知ったところで掛け算が出来るようになるわけでは無かった。
結局僕はその問題を間違えてしまった。
先生は「間違えは誰にでもある」と励ましてくれたが、僕にとっては皆の前で間違えた恥ずかしさとみんなより先に知っていたのに間違えてしまったという悔しさだけだった。
クラス中の視線が僕に向いた。
みんな密かに心の中で笑っているような気がしてならなかった。君を除いては。
君だけは僕の失敗を笑わずにいてくれた。それが僕にとってどれだけの救いだったか。当時の僕にはとても計り知れないものだった。
僕は君に救われた。


「懐かしいね。そんなのもあったな」
「僕にとってはとても恥ずかしい経験をした。でも君は僕のことを笑わなかった」
「うん。だって、あの空間で一番笑われるのはクラスのみんなの方だったから」
「どうして?」
「だって、あの問題は当時の私たちからしたら難しい問題だったでしょ?それを挑戦してみせたじゃんか。合ってるか合ってないかじゃなくて、解こうと行動したそれだけで充分だったんだもん」
「そっか。あの時の君はそこまで考えてたんだ」
「うーん、考えてたってよりはそのまま感じただけだったかな。私は私が思ったこと感じたことをそのまま私なりに捉えただけ。」
学校は時に異常になる、と君は言った。自分の考えとは程遠い、狂ったような意見でさえも多数決で多数の方を引けばそれが正義のように見せてくる。
自分の意見を持つことは異常な状態を感じるセンサーを持つことだと君は言った。

「それは、自分に対してもそう。少しでも自分に違和感があったらその違和感とよく見つめ合うの。異常な状態だってセンサーが言ってるならね。それが等身大に生きるってことだと思う」

「あの時の僕は等身大に生きてたかな」
「うん。少なくとも私はそう思うよ」
「そっか」
「まあ当ててたらかっこよかったけどね」
君はそう言ってぷふっと笑みをこぼした。
「余計なこと言うんじゃないよ」
「それが私の仕事だもん」
ごめんごめーんと笑いながら君は自分の席の方向へ走って行ってしまった。
「あ!元気でたよ!ありがとう」
振り向きざまにそう言葉を残して君は去っていった。
目に涙を浮かべながら吹っ切れたように笑った顔がいつにも増して眩しかった。脳裏に焼き付いたこの光景は一生忘れないだろうと確信するほど僕の心に深く突き刺さった。

閉会式が始まり順位が発表された。僕たちのクラスは優勝を掴むことは出来なかった。
だけど、各々達成感を感じたり疲れからお互いを労り合ったり後悔よりもやり切ったという表情だった。

閉会式も終わると後は自由解散だった。一緒に写真を撮る人や他のクラスの連中に混じって話しかけに行く人など会場の熱は冷めやまぬままだった。
僕は話しかけに行く友人もいないので、家族のところにでも行こうか、そう思って校舎に沿って歩いていたところ妙な光景を見つけた。
校舎の隙間で、君がクラスの男子と二人きりで話していた。嫌な予感がした。
同じスウェーデンリレーに出ていた陽気な男子が、君と一対一で話していた。やけに距離も近い。
僕は見つからないよう、咄嗟に物陰に隠れて二人の会話を盗み聞きすることにした。
「話って、なに?」
君の声だった。
「宮内って恋人とかいんの?」
宮内。君の名前だった。
「それ聞いてどうするの?」
「別にどうってことはないけどさ。聞いたっていいじゃん」
僕も少し気になっていたことだった。君の質問をかわすような答え方に、君にも恋人がいるのかもしれないという不安が頭をよぎった。
「まあいないよ。これまでも出来たことないし、これからも出来るか分からない」
「どういう意味だよ。これから出来るかどうかはまだ分かんないだろ?」
今の君に彼氏がいないことに安堵したのも束の間、『これからも』という言葉に少し引っかかった。君なら性格も明るいし、顔も整っていて男子に人気がありそうなのに、出来ない訳がない。
「私だからなの。私にしか分からないからそう言ってるの」
「意味分かんねえよ。生きてりゃ一人くらい出来んだろ」
「それは私が決めること。私にとっては普通のこと。おかしくなんかないよ」
何故か苦しそうに言葉が詰まって聞こえた。耳だけの情報だから、君がどういう顔をしているのかは分からなかったが、どこか寂しそうな声だった。
「まあ、そんなに言うなら別にいいけど」
「うん。受け入れてくれてありがとう。話はそれだけ?」
「恋人いるかだけ聞くために呼び出すやついるかよ。おれはお前に用があってここに呼び出したんだよ」
「用ってなに?」
「単刀直入に言うけどさ。お前、越谷とどういう関係なの?」
越谷。僕の名前だ。急に名前を呼ばれたから心臓がきゅうっとなった。
この状況においてのこの質問は僕にとってもかなり重いものだった。幼稚園から一緒に過ごし、唯一の友達となったその君を好きになってしまった僕にとって君は僕のことをどう思っているのか気になる反面、知ることも同じくらい怖かった。
その不安を煽るかの様に君の答えは淡白なものだった。
「どういう関係も何も、別にただの幼馴染だよ」
「あの冴えないやつと?」
「そんな言い方しないでよ。私の大切な友達なんだから」
''幼馴染'' ''友達''。僕からは聞きたくない答えだった。僕が君に抱いた想いは全て無駄なもののように思えた。僕はこれから一体どうしたらいいのだろう。今までのものは全て「友達として」の態度だったのだろうか。毎日登下校を繰り返し、時には僕の家で勉強会をし、体育祭では『ありがとう』と笑ってくれたあの君は全て友達としての態度だったのだろうか。

僕の不安は会話が進むに連れて肥大化していった。
「話はそれで終わりなの?」
「ううん。まだある。今言うから黙ってろ」
「うん」
「実はさ、おれ宮内のこと好きなんだ。」

やはり告白だった。イヤな予感は的中した。想像はついていたけども、人の告白なんて見たことも聞いたこともなかったからなんとも言えない衝撃だった。

「普段からちょくちょく宮内のこと見てて、お前の笑顔とか何気ない仕草とかそういうのに惹かれてさ。でも越谷と一緒にいること多いから、付き合ってんのかなとか思ったんだけど、ただの幼馴染だって分かったから安心してさ。これからはもっと宮内と一緒の時間過ごしたいから、どうかおれと付き合ってください」

想像以上に誠実な告白だと思った。もっと強引に誘ったり無理強いをするかもしれないと思っていたが、なんとも真っ直ぐで高校生の純粋さに包まれた告白に、逆に自分が騙された気分だった。

「気持ちは嬉しいけど、ごめん。貴方の恋人にはなれない。」
「そうか。おれの何がダメだった?」
「何がダメとかじゃなくて、好きな人がいるの、私」
「は?誰だよ」
「言わないよ。悪いけど、もうこれ以上私のことについて詮索しないでほしい」
「なんだよ、分かったよ。もういい。シケたわ」
(ここらへん『会話に一段落ついた』的なことを入れて繋ぎを入れてから次の文に移る)
ここで見つかったら死ぬという直感から逃げるようにその場を後にした。

歩きながら今までの会話の内容を整理しようと頭の中で思い浮かべたが、どうも感情の方が追いつかなかった。
今の僕にとってはまず逆立った感情を落ち着かせることが優先的だった。

君には好きな人がいて、僕はただの幼馴染。だけど大切な友達だとは思っていた。
今までの、君との時間はなんだったのか。体育祭で君が泣き止んだ後に見せてくれた笑顔はなんだったのか。
かつての一人で勝手に胸を踊らせていた自分に腹が立つ。
あの笑顔にどれだけ救われたことか。僕は君のために生きているというのに、君は他の誰かのために生きていたのか。
僕のこの暗い人生から君の明るさがいなくなったら、これからどうやって生きていこう。

嫌な妄想がぐるぐる頭の中を駆け巡る。


結局その日は僕の頭からそれが離れることはなかった。

翌週、学校が始まりまたいつもの朝を迎えた。外には雨が降っていて、僕の心象を映しているように静かに重たい空気を纏っていた。
体育祭の熱気はすでに冷めて皆何もなかったかのように過ごしていたが、僕だけはそうはいかなかった。体育祭のあの出来事が、どうも頭から離れない。
部屋の隅に溜まったホコリが取っても取れないように、頭にずっと棲み着いて取ろうとする程さらに記憶の奥に棲み着いていった。

体育祭で告白された君は、いつもと変わらない様子でクラスメイトと顔を合わせるなりはしゃいでいた。
僕に対してもいつもと変わらない態度で話しかけてきた。
いいなあ。どんな辛いことも悲しいことも次の日にはすっかり忘れていつも通り健気な君は。僕には到底そんなことは出来ない。
一つのミスや不意に言われた一言をずっと引きずってしまう。
せめてそんなことを言われないくらい恵まれた人間であれたら良かったのに。君みたいに。



帰り際、君から「今日職員室に用があるから先帰っといて」と言われ僕は一人で急遽帰ることになった。
試験も体育祭も終わったのに何に呼ばれたのだろうと少し気になりながらも自分のことで精一杯だった僕はそんなこともすぐ忘れてしまっていた。

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