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書くことが「いま」を照らす

みなさんにとって、創作のゴールって何ですか?

そう尋ねられたとき、わたしは固まってしまいました。嶋津亮太さん主催のオンラインバーCafeBarDonnaでのことです。

同じ会に参加していたサトウカエデさんは、後日「感情のアーカイブ」という言葉でご自身の「書く理由」を表現しました。

人間は忘れてしまう生き物であり、変わりゆく生き物であるからこそ、感情の軌跡を書きのこし、それを思い出すことで人生を彩り豊かにしていくのだ、と。

なるほど、とおもいました。わたしが書く理由のひとつもそれかもしれない、と。ただ、実はわたし、過去に自分が書いた文章をほとんど読み返さないんです。でも「書きのこしたい」とはおもっている。

それはなぜかと考えたときに、おもいついたことがいくつかあったので書いておきます。ちなみに、「書きのこすこと」はわたしにとって書く理由ではあるけれど、最終的なゴールではなさそうです。ゴールはたぶん、「自分にとって納得のいく表現をすること」。これについてはまた別の機会に書きたいです。


世界をみつめ、いまを心に刻みたい

唐突ですが、はっきりいって、日々の生活は「めっちゃおもしろい!!」と叫べるようなものではないなあとおもっています。すくなくともわたしはそう。

腹を抱えてゲラゲラ笑ったり、うれし涙を流しながら仲間と肩を抱き合ったり、興奮でアドレナリンが大量に出て眠れなくなったり…なんてことは、そうそう起こりません。赤ちゃんみたいに、ティッシュを何枚も引っ張り出しながら目を輝かせてキャッキャすることもない(ちょっとやってみたい)。

けれども、せっかく生きているなら、あらゆるものをたのしみたいし、ちょっとでも心を動かしていたい。子どもの頃ほど純粋な好奇心や衝動は湧いてこないとしても、つまらなさそうな世界で煌く何かをみつけ、心に焼きつけたい。

そんなとき、言葉はとても役に立ちます。言語化し、記録することで、日常の出来事や感情の解像度が高くなり、ぼうっとしていたら通り過ぎてしまうあらゆるものごとを心に留めやすくなるからです。

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本を読むとき、線を引いたり付箋を貼ったり、感想を記録したりするほうが中身を覚えられるのといっしょで、書く行為に落としこめば、ささいな出来事も心に染みこみやすくなります。しかも、あとから振り返ってみると、ささいな出来事こそが大切におもえたり、しあわせにおもえたりもする。

逆に、書く習慣があると「ネタ探し」をするうちに自然と周囲の人・モノを観察するようになり、結果、感受性や洞察力が豊かになる側面もあるかもしれません。

世界をみつめ、書くことで、いつのまにか特別な日常がふえていくような気がしています。これは「書きのこす」というよりは、書く行為そのものを通して、「いまを心に刻む」行為です。


写真に映らないものをのこしたい

ふるさとに帰省した際、実家につづく夜道を歩いていたときのことです。澄んだ空気や田畑の匂い、その向こうにうっすらとみえる山影、空高くそびえる月が胸に迫ってきて、暗闇のなか、立ち尽くしてしまいました。

いま、この瞬間にみえるものをいつまでも覚えていたい。ここを離れるのがもったいない。

わたしはとっさに写真を撮りましたが、写真には匂いをそのままのこせないし、わたしの技術では視覚的にすら上手く反映できません。

メモしなきゃ!

衝動に駆られたわたしはメモ帳に風景を描写し、印象を書き留めました。そこから派生したのが「家路」という作品です。葱のにゅうめんもおなじで、店に向かっている最中、雨のなかを歩いているときの心の高揚感が珍しかったのでメモしたところからはじまりました。

写真や映像には上手くのこせないものを、できるだけ具体的に記録しておきたい。

そんな衝動から文字を綴りはじめる瞬間があります。

先日、学生時代に撮った写真を振り返っていたら、「匂いものこせたらいいのに」とコメントをつけているのを発見しました。「まさにいま、それを文章にして、心のアルバムをつくっているんだよ」と若かりし頃の自分に教えたくなりました。


かなしいことより、うれしいことを覚えていたい

なぜなのでしょうか。幼い頃や青春時代を振り返ってみたとき、ショックだった出来事やセリフはそこそこ鮮明に覚えているのに、うれしかったことやたのしかったことはぼんやりとしか覚えていません。白いベールがかかっていて、なんとなく明るい雰囲気はイメージできるけど、具体的なシーンやセリフはあまりたくさん浮かんでこない。

たのしい記憶は、かなしい記憶やつらい記憶に容易に打ち消されたり、上書きされたり、気配が薄くなったりするのに、かなしい記憶はとても濃くて頑丈で、うれしいことが起こっても容易には消えてくれない(わたしだけかな…?)。

これって、すごくもったいない。損してるような気持ちになります。

かなしいことよりも記憶にのこりづらい「うれしいこと」「たのしいこと」「しあわせなこと」をしっかり心に留め、人生におけるそれらの存在感をつよめてあげる。能動的にポジティブな記憶をふやしていく。

これが、文章を書く大きなモチベーションのひとつです。


おばあちゃんになったら人生をたのしく振り返りたい

生前、祖父は何十年ものあいだ欠かさず日記をつけていました。インターネットのない時代から、だれに読ませるわけでもない文章をコツコツ書き続けていました。その記録をもとに、亡くなる前には自叙伝をつくりました。

わたしは祖父の死後に自叙伝を読み、生前はあまり深い話ができなかった祖父の心の奥にほんのすこし触れられたような気がしました。「書き遺す」ことの価値を知ったのです。

先述したとおり、わたしは過去に書いた文章をめったに遡りません。もっとこんなふうに書けたらよかったのに、これ野暮だなあ、などと批評してしまうから。けれど、何十年も経ってしまえば、小学校の文集を読むときのように微笑みながらなつかしい気持ちに浸れるのではないかとおもいます。

言葉や写真をたくさんのこして、命のともしびが消えるまえに、祖父のように鮮明にイメージできる状態で振り返りたいです。まるでタイムスリップしたかのように振り返りたい。たとえ認知症になっても、読み聞かせてもらったら光景がおもい浮かぶといいな。

そして「いい人生だったなあ」とおもってから幕を閉じたいです。

もし子どもや孫や、仲のよい若者がいて、読みたいといってくれたら、何かまとめてみてもいい。そんなしあわせな最期を過ごせたら最高ですよね。


こうして考えてみると、あらためて、文章にはいろんな可能性があるなあとおもいました。悩みは尽きませんが、これからもマイペースにたのしみます。

お読みいただきありがとうございました! スキもシェアもサポートもめっっっちゃうれしいです。 今日も楽しい一日になりますように!