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沈まない街の、その片隅で。

先日、図書館で借りた原田マハさんの本を初めて読んだ。


「たゆたえども沈まず」

本の表紙になっているゴッホの「星月夜」を、僕は6年前の春、NYのメトロポリタン美術館で見たことがある。展示室の真ん中に堂々と、でも静かに飾られていたその絵の周りからは、人が絶えることはなかった。旅の同行者である友人2人は、絵画への関心がそこまで高い方ではないのだけれど、他の絵よりもじっくりと時間をかけて眺めていた。この本を読んで、あの大きな黒い木の正体が糸杉という名前だと知る。渦を巻くような空と、凛と輝く月のコントラストは、見たものを掴んでは離さない。

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僕が一番眺めていたゴッホの絵はなんだろうと思い出してみると、それは間違いなく「タンギー爺さん」である。中学生の頃、美術の資料集の表紙を飾っていたその絵を、僕は美術の時間の度に眺めていた。タンギー爺さんの名前は知らなかったけれど、浮世絵を背景におじいさんが優しそうな瞳でこちらを見ているのが印象的な絵だった。

「まるで日本のミカドのようだな」
浮世絵に囲まれて鎮座するタンギー眺めて、ひと言、フィンセントが言った。タンギーもテオも楽しげに笑った。

そのシーンを読んだところで、本の中のタンギー爺さんと、資料集の表紙のおじいさんが、僕の中でようやく繋がった。タンギー爺さんの眼差しは、フィンセントやその他の売れない芸術家に向けられていたのか。

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パリは、夢のように輝いている街であり、そのどこかに、ひと欠片の淋しさを隠している。重吉やテオ、そしてフィンセントの目線から見たパリの景色が、僕にはそう見えた。

「そういうものさ、パリという街は」
忠正が、応えて言った。
「見たことがないものが出てくると、初めのうちは戸惑う。なんだかんだと文句を言う。けれどもそのうちに、受け止める。

忠正の言葉は、パリの懐の深さと厳しさを表しているのだろう。流行を作り出す、時代の先端を進んでいたパリは、だからこそみんなの夢や希望であり、一方、その波に飲まれてしまった、例えばフィンセントのような誰かは、パリ以外に安寧を求めてさまようのだ。

***

最後まで読み終わって、胸にぐっとくるものがあった。うっすらと、目に涙が浮かんでしまうくらいに。この気持ちが、フィンセントとテオの兄弟の悲しみを想ってなのか、それとも、そんな二人を支えた重吉の未来を祈ってなのか。いずれにせよ、次にゴッホの作品を見るとき、その見え方は今までと違うだろうということは確かだった。

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