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烏の婿取り その一

「笹木の家はな、カラスの婿を迎えたんだよ」
「…え? 何ですか、大おじいさん」
 笹木篤郎は、椅子に掛けた老人を見上げた。名を笹木文彦といい、母方の曽祖父の兄にあたる。
 よくわからないが、つまりは古老であり親類である。文化財に指定された大きな古い屋敷に、今も住み続けている。
 畳の床には、烏の濡れ羽めいた古い着物が広げられている。篤郎が見たいと言ったから、叔母が出してきてくれた。
「お前の曾じいさんに仕立ててやった紋付だ。内側の見えないところに、名前の縫い取りがあるはずだ」
「…ええと、黒田九郎…かな。元は、黒田という苗字だったんですか」
「婿として、笹木の家に入ってもらったからな」 
 黒ではあっても艶のある絹地が用いられ、家紋のついた着物は晴れ着らしい。
 身頃の前後左右、両袖の五箇所につけられた紋は、それほど目立たない。紋の有無で着物の格式が変わるらしいが、よく見ないとわからないほど小さい。
 篤郎は袖を手に取り、模様を見つめた。植物で囲まれた円の中に、翼を持つ生き物が三羽描かれている。
「…これ、鳥ですね」
「雀紋だよ、笹木の紋は」
「雀ですか。なんだか可愛いな。…あれ。一羽大きい鳥がいる。これは親鳥ですか」
「…いや。それはカラスだ。元は三羽の雀だったのを、私が変えたんだ。妹が、カラスを婿に取ったからね」
「カラスを?」
「そうさ。お前の曾じいさんは、親切なカラスだったからな」
 まんざら冗談でもない軽口を叩き、人の悪い笑みを浮かべてみせる。映画好きの洒脱な人物だったという文彦の、若き姿がほの見えた。
「教えてくださいよ、その話。僕今、民俗学を専攻していて、論文を書いているところなんです。つまり、異種婚姻譚ですよね」
「聞きたいのかね、こんな老人の話を」
「うん、すごく聞きたいな。今、叔母さんにお茶を淹れてもらってきますから」
 笹木文彦は、笑ってひ孫を見送った。浅黒い肌と濃い目鼻立ちに、黒田九郎の面影がある。
 …九郎に、綾女よ。お前たちは今、どこにいる…? 空の彼方か、山の天辺か。


 …ちゃぷる、と桶の中の水が跳ねた。
 使いこまれた木目はなめらかで、黒く水を吸っている。すべすべして、とても気持ちがいい。
 大きな樽に水を張って、日がな一日浸かっていたい。是非にもそうしたいところだけれど。
「…そうもしていられないわ」
 少女はつぶやく。マメのできた手に、桶の取手をぶら下げる。数歩進んで、よろめいた。
「…水って、こんなに重いのね」
 裏庭の井戸から水を汲み、勝手にある水瓶に貯めるという単純な作業の反復だ。離れた川から汲んでくるわけでもない。つるべは新しく、軽々と動く。
 簡単そうに、思えたのに。
 水運びが重労働であるからには、水風呂は大層な贅沢であるに違いない。
 幼い自分をたらいに張った水に入れてくれ、ぬるくなると新しい水を足してくれた。白井のじいの手の、やわらかな皺とぬくもりを思いだす。
「…っ」
 少女は頭を振り立てる。艶のある黒髪が勢いよく広がり、やがて萎れて顔を覆った。
 土台、欲張りに水を汲みすぎたのだ。こんなに重いと思わなかったから。
 半分に減らそう。捨てるのはもったいないから、元気のない庭木にあげよう。その前に、少しいただこう。のどが渇いたのだ。
 華奢な手をすぼめ、水を受ける。水面に、溢れる緑が映る。この水が甘いのは知っていた。住む前にも、何度か訪れたことがあるから。
 不意に、手首を横合いから掴まれた。
「…へっ!?」
 乙女にはふさわしくない、変な声が出た。浅黒い肌の、黒っぽい着物を着た青年が、目の前にいた。
 …いつ、家に入ってきたのだろう。門もある。かんぬきは、下ろしていなかったかもしれないけれど。
 少女の眼尻が、つりあがる。
「…あなた、誰よ」
「黒田九郎だ。…じいやさんから聞かされてないのか。新しい下男がくるって」
「…聞いていないわ。帰って頂戴」
 言うなり、掴まれたままの手を取り返す。断りもなく触るなんで、ぶしつけだわ。
 切り揃えた前髪の下から、瞳を燃やして睨みつける。男はどこ吹く風で、桶をひょいと持ちあげた。「こいつを、お勝手に運べばいいのか」 
「頼んでないわよ、そんなこと」
 肩を怒らせる少女を無言で見下ろすと、男はさっさと家の方へ歩きだしてしまった。自然と追いかける格好になったのが、癪にさわる。
「…あのねえ、あなた誰よっ」
「黒田九郎。今日からこの家の下男だ、よろしくな」
 そんな不遜な口をきく下男があるものか。第一、じいやはもういない。
 兄が望んだこの屋敷での暮らしを実現させるため、手を尽くしてくれた。
 遺産を狙って策謀を巡らせる親族から兄妹を守り、海を渡る旅の手配まで。じいは後からお供しますと言いながら、倒れてしまったではないか。
 …じいやの、嘘つき。ずっと綾女のそばにいるって言ったのに。兄様だって、嘘つきよ。
 きらきらした黒目を光らせてこちらを監視している少女を、男は背中で笑って受け流す。
 水瓶の底に、少しばかりの水が注がれた。頼りない音だ。少女の肩から、力が抜ける。
「…それ、とっても重いのよ」
「わけもねえ。水瓶いっぱいにしてやろうか」
 少女は小さくうなずいた。こんなとき、兄の文彦が手伝ってくればよいのに。
「お礼は期待しないで頂戴。この家、何もないのよ」
「後で、水を飲ませてくれりゃいい」
 言うなり、九郎は陽光の下へ駆け出してゆく。
 突き出た庇の奥にわだかまる闇は、昼でも濃く屋敷を包んでいた。
 帯から細い背中にかけて闇にまとわりつかれた少女は、背伸びをして戸棚から湯呑をとる。水を満たした。
「…好きに飲めばいいのに」
 水汲みを買ってでたのだから、馬に飲ませるほどでも飲むことができるのに。
 いちいち断るのは、なんだろう。見かけや言葉遣いの粗さとは、違ったところがあるのかしら。
 少し迷って、戸棚から最後の粟餅をだした。ゆっくりと茶を淹れる。
 なにか食べるもの、ほかにあったかしら。文彦はきっと、微笑むだけだ。僕はいらないから、綾女がお食べ…と。
 けれども人間は、空気と霞だけを食べて生きるわけにはいかないのだ。生活というものの重さが、ずしりと綾女の肩にのしかかる。
 …黒田九郎、っていったかしら。変な人みたいだけど、水汲みのやり方でも教えてもらうしかないわね。
 綾女が立ちあがった時、新緑を嵌めこんだ扉が開いた。風と熱の匂いが、目まぐるしく彼女を包みこむ。…眩しかった。
「おらよ。何往復かすりゃ、一杯になんだろ」
「…あ。お茶、淹れたわよ…」
 皆まで言い終える前に、桶を両手に下げた黒田九郎は、勢いよく水を注ぐなり駆けだしていった。
 せっかくのお茶が、冷めてしまうじゃない。でも、ちょうどいいかしら。あんなに走り回ったあとで、熱いお茶はほしくないだろうから。
 行き来をくりかえして瓶をいっぱいにした黒田九郎は、勝手口から外に出た。帰るのかと思ったら、もう一度手桶をぶらさげてゆく。
「もう充分よ。ありがとう」
「俺が飲む分を汲むんだよ」 
 水瓶に溜めた分を、減らすまいとしての気づかいだろうか。
 綾女は首を傾げていたが、九郎が戻ってきたのでそちらを見た。
「暑いぜ、今日は」
 言うなり彼は、桶を逆さにして頭の上に差しあげた。
 しとどに雫を滴らせて笑う男を、綾女はぽかんと見守った。兄は、行水する姿など見せたこともない。
「かーっ、清々したぜ」
 黒田九郎は犬のように体を震わせ、水気を飛ばす。しまいに底に残ったわずかの水を、逆さにした桶から直接飲んだ。
「桶に口をつけないでっ」
「つけてねーって。一寸は離れてるだろ」
 悪びれない男は、びしょびしょになった着物の裾を絞っている。そんなことをしても、すぐには乾かないのに。
 兄の着物を貸してやることもできた。だが、綾女は小さな唇を結んだまま、拳を握っていた。
 九郎は、濡れた体で屋敷に入ってくる気はないらしい。戸口に立ったままで、手を差しだす。
「なあ。もう一杯水をくれ」
 綾女は粟餅を乗せた銘々皿と、湯呑を乗せた盆を戸口から突きだす。
「…あ。なんだ、俺に?」
「ほかに、誰がいるっていうのよ」
 九郎はにやりとして盆を受け取った。粟餅を指先でつまみ、ひと呑みにする。目を白黒させ、あわてて茶を口にする。
 父や兄でも、そんな食べ方はしなかった。兄と比べて、口の大きさが倍ぐらいあるのだ。
 口の端に粉をつけたまま、九郎は満足そうに笑った。
「うまかった。じゃあな」
「帰るの? あなた、うちの下男になるんじゃなかったの」
「ありゃー嘘だ。幽霊屋敷だって噂の家に、人が入ったんで見に来ただけだ」
「…幽霊屋敷? 聞いてないわ」
「誰も住んでねーのに、障子に人影が映るんだよ。餓鬼の頃は勝手に入りこんで、何度も探検したもんだ」
「…幽霊なんか、いないわ」
「そうだろうな。今も、いたのはあんた一人だけだ」
「…一人じゃないわ。兄がいるもの」
「…誰もいねーようだが?」
「…夜になると、姿が見えるわ」
 会話が途切れ、雲が流れる。日は傾く予兆を見せていたが、まだ高くに有りて蝉が歌う。
 少女の細いつま先が、湿った庭土を踏みしめて一歩進んだ。
「…ねえ、教えて。米びつが空っぽになったら、どうすればいいのかしら」
「…何?」
「粟と稗を見つけて、お米に混ぜて炊いていたの。でも、それも今日でおしまい。今夜は水で我慢しても、朝にはお腹が空くわよね」
「…なんだって! さっきのは、最後の…」
「そうよ、ほかにないもの。庭のハコベって、やわらかそうね。食べられるかしら」
「…待てよ。あんたが知らねーだけで、どこかにしまってあるんじゃねえのか。金じゃなくても、金目のモンが」
「…さあ、わからないわ。じいやと兄様が管理していたから」
「…まったく…、お嬢さまだな!」
「悪かったわね。なりたくてなったのじゃないわ」
 綾女はつんと顎をそらした。下男を雇いたくとも、金子などない。かくて、誇りばかりが多く残りたる。
「…兄貴がいるんなら、嫁入り前の娘に変な噂が立つこともねえか。粟餅のお返しに、ウグイの塩焼きぐらい食わせてやるよ」
「ウグイって、なあに。お魚?」
「食ったことねえのか」
「…ないわ、たぶん。魚屋さんに口利きしてもらえるのはありがたいけど…」
「魚屋なんか、呼ぶ必要はねえ。あんたも来てみろ。裏の川に、ウグイがうじゃうじゃ泳いでるぜ。俺が釣る間に、ハコベでも摘めよ。あれは割と食える」

 …竹串を刺してこんがりと焼いた、川魚が大皿に積まれている。ハコベのおひたしが色を添える。米の粥まであるのは、黒田九郎の手柄に違いない。
 彼が見つけた鍵で開いた土蔵から、米俵がいくつも発見された。
 黒田九郎は瓶に詰めた籾米を棒で突き、精白できた米で手際よく粥を炊く。
 綾女も飯を炊くけれど、慣れないのでゆっくりしか作業ができない。米と水を満たした釜はずしりと腕にこたえ、炭を熾すのも一苦労だ。
 家の掃除ならまだいいが、風呂を立てるのはむずかしい。水瓶以上に、大量の水を運ばなければならないのだ。
 どう考えても、自分ひとりの手には余る仕事量だ。
 綾女は漆の膳に、三人分の夕餉を盛りつけた。膝をついて、そのまま板の間に座りこむ。
 黒田九郎は、余った魚を軒先に干している。よく乾かせば、困ったときに食べられると言いながら。生活力の差を、まざまざと見せつけられた。
 綾女は、力なく呟いた。
「…わたしの力じゃ、もう無理。兄様、助けて…」
 昼尚暗い屋敷には、夕ともなれば闇が棲む。
 隅の暗がりから湧くように、青年の姿が浮かびあがった。
 その足元は、闇に紛れてよく見えない。
 かさこそと鳴る夕風に紛れて、青年は囁いた。
「…簡単なことだよ、綾女。あの男を、雇えばいいのだ」

【続く】



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