烏の婿取り その三
木の肌に、金物が打ちつけられる音がする。
裏の小川でさきほどまで躍っていたウグイを、浅黒い手が掴んでいた。
腹を割いて、腸をかきだす。頭から尻尾へ串を刺し、こんがりと焼きあげる。焼けたウグイを骨ごと煮出した汁で、粥を炊く。
土鍋からぷつぷつと噴きあがる飯の匂いに、綾女は鼻をひくつかせた。
「まあ、いい匂い」
「上澄みの重湯は、病人用だ。底にたまった粥のほうは、あんたが食うといい」
「わたしの分もあるのね」
「兄妹仲良く食いな。足りなかったら、もう一鍋炊いてやる」
「黒田の分はあるの?」
「俺は粥より、強飯のほうがいい。合間に握り飯をつくったのを食うから、案ずることはねえ」
目で促され、綾女は鈴振るう声で兄を呼んだ。
「兄様、黒田が粥をこしらえてくれたのよ」
「…いい匂いがする」
笹木の当主は、風の気配に頬を撫でられて微笑んだ。
彼はこの頃、ゆっくりなら上体を起こせるようになっていた。
「やあ、旨そうだな」
よく見れば瓜二つの、二対の黒目が向かい合う。ひとつ鍋の粥を分かち合い喜ぶ姿は、二羽の小雀のようにも見えた。
…命になる。体になる。
食べ物は、ただ腹が減るから詰めこむだけのものではない。
さきほどまではびちびちと淵で跳ね、泳いでいた。か細い一個の魚体である。
その命を受け継ぎつなぐから、今日もまた生きてゆく。
ある時皿に乗せた一尾のウグイを見せて、黒田は言った。いつになく真剣な顔をしていた。
「これは儀式だ。今から、こいつの命があんたの体の中に入る。命を、あんたの中に移すんだ」
「……命を、移せるのか」
「おう」
黒い眼差しにも眉にも、微塵も迷いがなかった。
浅黒い大きな手から皿を押し頂いて、光り輝く魚体を見る。
頭を垂れる。何ものかに、祈る。
何の権利があって、魚たちを殺すのか。
何の権利もない。
ただ、生きたいだけだ。
生きていたいだけだ。
輝く瞳を、太陽のもとで見る。
人から発する熱が、日差しに慣れぬ肌を焼く。
その目が、食え…と言っている。
生きたいなら、食え。
気の毒な魚たちに、あんたがしてやれることは何もない。
…何も…、ないのか。
…ない。ただ、まっすぐに生きろ。
より能く、生きろ。活きろ。
あんたの命を、活かし尽くして息絶えるまで。誰かの糧に、なる日まで。
生きろ。ただ生きろ…。
それ以外に、できることはない。
人間…には。
ただの、人間には。
震える手に、箸を握った。
力が萎えていて、うまく握れない。ぼろぼろとこぼす。
膝や胸元に落ちたのを、丁寧に九郎が拾った。そっと口に入れてくれる。
「そいつらは、みんな命だ。余さず食え」
命が、喉をすべり落ちてゆく。
おおぜいの、きらびやかな鱗を持った魚たちが。きらきらと、体の奥へ消えてゆくよ。
にぎやかに通り過ぎて、僕の体に代わってゆくよ。
ああ。僕は今まで、なんて無造作に食事の時を過ごしていたのだろう。
命が通るときの音を、無為に聞き逃していたのだろう。
窓辺の光が、笑っている。
緑が萌えているのか。
もうそんな季節なのか、青い風が過ぎる。
知らずに頬が濡れた。
「……旨い」
九郎が、笑っていた。
「よし、食ったな。明日はもう少し良くなるだろう」
明日という日を夢に見たことのなかった青年は、わずかに瞳を開いて拳を握った。
痩せた指を開いて握り、力の戻りを確かめる。
「明日が、あるのか」
「あるさ」
「明後日も、あるのだろうか」
「あるさ」
九郎の応えは、実に短くそっけない。だが、それゆえに確かさが感じられた。
多くの命の支えのもとに、今日の命は有る。
連綿と続く、平凡な日々の穏やかさのもとに。
隠された命の火が、ゆらめきながら多く飛び違い、白くあかるく燃えていた。
「…君は一体、だれなんだ」
神か仏か、地蔵尊か。
「…ただの、通りすがりのカラスだよ」
「…烏は、日輪を背負って現れるというな。そうか、神の使いの八咫烏か」
「…ああ? そんな大層な代物であってたまるか。顔に飯粒つけて、抜かしてんじゃねえ」
顎についた粥を意外なやさしさで拭いとり、体を支えて寝かせてくれる。
「食ったら寝ろ。病人には寝るのが薬だからな。綾女と俺は隣の部屋にいるから、こいつで好きな時に呼ぶといい」
鈴をつけた紐を渡されて、ひとつ頭を撫でられる。…現世のまぼろしか錯覚か。黒い羽の固さが、なめらかに頬を打った。
ゆらゆらと夢に落ちてまた、夢を見る。
夢一年、また一年、行き行きて歳暮れるまで。
家々の屋根に、夢ぞ深く降り積もるまで。…眠れ。ひとえにただ、眠れよと。
…機械式幻燈の考案者であり、職人肌の研究者となった笹木文彦は、百年生きた。
「…大おじいさん、この家紋は珍しいですね」
黒地に白く染め抜きの紋が、衰えた目にようやく確かめられる。
簡素な祝い事なら三つ紋でよいが、婚礼となればそうはいかない。打ち掛けの袖や背中にも、同じ紋を五箇所染め抜きで仕立てさせた。
金糸の縫い取りでかまわないと綾女は言ったが、文彦は首を縦に振らなかった。
万事に簡便さがもてはやされる時分だが、譲れることと譲れぬことがある。
婿取りを阻止しようと謀る親族どもは、幻灯で驚かせて追い返してやった。
文句など、誰にも言わせはしない。
風来坊のように訪れ、その日のうちに欠くべからざる者となった当家の下男よ。
ふらりと立ち寄ったのは、まったくの偶然であったのか。
気まぐれに見せかけ、我らの窮状を見かねていたのではないのか。
臍曲がりのお前のこと、訊ねて素直に答えるとは思われない。
ならば、訊くまい。
黙って共に、在ろうではないか。
我ら、古より血で結ばれし縁。
そう決まっていたのだろう…?
濡羽色の使者…黒田の九郎よ。
笹木の姓となった九郎は、九十二歳まで生きた。大往生だと囁かれ、この屋敷で静かに時の刻みを止めた。
妻の綾女も、後を追うように彼岸へ渡った。
残された文彦は、皺の刻まれた長い指で紋付の袖を撫でる。
凹凸がないから、触って形を知ることはできなかった。染め抜きの上に、刺繍で念を押しておくべきだったか。
顎に手を当てて考えこむ文彦の隣で、若い篤郎が熱心に写真を撮っている。
「雀のうち一羽が、こっそり烏になっているんですね。面白い」
見たことのない家紋だと、興奮している。
それもそのはず…先祖から伝わる紋は、竹の輪で囲まれた三羽の雀だった。
綾女が嫁ぐ際に、雀の一羽をカラスに変えさせたのた。同じ紋を持つ家は、どこにもない。
文彦は生涯娶らなかったが、九郎と綾女の間に健やかなる赤子が生まれ、後を継いだ。
笹木文彦は、篤郎に頼んだ言葉をくり返した。「魚塚を、護ってくれよ」
文彦は、ウグイに手向ける塚を屋敷の裏に築いた。庭に転がる石を拾い、自身で積んだものだ。後に石工を呼んで、立派なものに作り替えさせた。
由来は伝えぬまま、魚塚参りが一族の慣習となっている。供養だけは、続けてもらいたい。
「わかりましたよ、大おじいさん。また、色々話を聞かせてくださいね」
「…ああ」
静かに答えて、目を伏せる。今日は少し疲れたようだ。このまま、一眠りするのも良い。
文彦は気に入りの椅子に体を預け、目を閉じる。
障子の向こうからささやくのは、深まりゆく秋の声か。微かな気配が、老いた鼓膜を震わせた。
見えにくくなった目が、何かを探してさまよう。
「…篤郎よ。障子を開けてくれ…」
空中に潜む水の子らが上空で冷やされ、見えぬ梯子を伝い落ちてくる。
地上を掃き清める白い使者を、人は雪と呼ぶ。
鼓膜の奥に滲み入る気配は、これであったか。
「…初雪ですね。みんなに知らせてこよう」
熱い血を宿した若い体が、どしどしと廊下を駆けてゆく。
遅れがちな冬の使者に、文彦は目を細める、
大地は退屈な褐色に沈み、空っ風に不平を述べて枯れ葉を散らしていた。良い頃合いかもしれぬ。
雪は語るか、語らぬか。
見えざる者の、心を語れ。
齢を経た屋敷は、寒さもひときわ骨に染みる。
元は豪農の持ち物だったという家は、執事の白井のに買わせたものだ。
鰊御殿の華美さはないが、本州にない巨木を柱や卓に使っている。質実剛健なところが気に入っていた。
文化財に指定されてからというもの、好きに改築できなくなった。すこぶる不便だが、住み慣れた場所を離れることもできない。
しきりに譲渡を持ちかけられたが、文彦は首を縦に振らなかった。
黒田九郎が、ここにいた。
そして、髪をきりりと結い上げるようになった綾女が。
九郎に教えられながら、飯を炊いていた。軽やかな足音が、近づいてくる。
『兄様、今日はうまく炊けたのよ』
焼かれたウグイが、青々とした笹に乗せられ供される。
九郎は山に入り、山野草と茸を採ってきた。なんでもできる男だったが、なぜにこの家に居着いてくれたのか。
文彦に川釣りを教え、綾女も一緒に山を歩いた。魚や木の実や、野草を自分の手で採ることがわけもなく楽しかった、あの頃よ。
木立の間にぽかりと空いた、陽だまりに寝転んで空を見た。
緑の吐息が、肺の奥を甘く潤してゆく。
文彦は両腕を頭の上まで差しあげ、大の字になって宣言した。
『…決めた。僕はもう、病になんかならないよ。これから先、幻燈は人々の楽しみのために使うんだ』
黒田九郎は、何も言わない。
不敵な笑みが大きな口の端に浮かび、瞳のきらめきが彼の心を伝えていた。
『…好きにすればいいさ。あんたの人生だ』
彼の返事はいつも短かく、そっけない。
しかし、ぶっきらぼうな態度の向こうにある温かさに、救われていた。
面と向かって、感謝を伝えたことはなかったけれど。
彼らの気配が、今も微かに消え残る…。この家から、ただ離れたくなかったのだ。
…ゆきが、降る。ただ、雪が降る。
視界を埋めて、降りしきる。
夢に降る雪、雪に降る夢。生くるも死ぬも定かでない境界の川へ、とふらふらと。
銀の鱗持つ魚たちに引かれ、向こう岸へと渡ってゆこう。
文彦は、一歩踏み出した。
篤郎が戻ってきた時、文彦は縁側に倒れていた。
親類一同が集まる日でもあった年暮れの古い屋敷は、にわかに騒然となった。
文彦は微笑み、なにごとかを囁いた。
身内の者が、聞き取ろうと一斉に顔を寄せる。「…カラスが…来たか。行こう…」
笹木文彦が最期に発した言葉は、謎めいていた。
皆が首をかしげる中、篤郎ひとりが瞳を開いていた。
カラスとは、曽祖父のことだろうか。
黒田九郎が迎えに来たから、文彦老人は笑ったのか…?
謎は謎のまま、音もなく追憶の彼方に沈んでゆく。水の輪めいた波紋がしばらく皆の目に映るが、やがては薄れ、忘れ去られる。
そして不思議な家紋だけが、笹木の家に今も伝わる。
【終わり】
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