烏の婿取り その二
…黄金の輝きが、大きな壷に満たされている。江戸時代の小判に見えるが、金の質は確かだろうか。
黒田九郎の目が一瞬きらめいたのを、綾女の兄は見逃さなかった。
「…こんな奥地の、不便な屋敷のことだ。綾女を助けてくれればありがたい。手当は弾もう」
「…本物か」
「明治政府の鋳造金など、あてにはならない。元禄時代の貨幣だよ。古銭としての価値もある」
「…うさんくせーな」
「嫌なら、断ってもらって結構。しかし、この家で見たものについて他言しないでもらいたい。親類縁者が、父上の遺産を狙っている。奴ら、僕が死ぬのを首を長くして待っているらしい」
「なんだと?」
「文字通りの意味だ。僕がこの有様だと知れば、綾女狙ってどこぞの馬たちが押し寄せる」
…つまり、金はある。ただし、当主の僕が健在であると判断される間だけは。
笹木文彦は、涼しい顔で言ってのける。
「…ちょっと待て」
黒田九郎は腕組みし、頭を整理しにかかった。 笹木文彦と名乗るこの男自身が、まず怪しい。
彼が門から入ってくるところを、見なかった。自分は縁側で軒に魚を吊るしていたのだから、間違いない。
…勝手口からか? そんな気配はしなかった。
もしもそうであれば、この男は最初から屋敷の中にいたことになる。あるいは、忽然と現れたかだ。
黒田九郎はその濃い眉をぐっと寄せた。
「…あんた、本当に人間か」
「何を言うんだ。生きているさ、こうやって」
文彦は、自分の膳に乗った魚を箸で掴んでみせようとする。焼けたウグイが、すり抜けた。
九郎の眼が、限界まで開かれる。
文彦はのんびりと妹に呼びかけた。
「…やあ、しまった。またやってしまったな。どうしよう、綾女」
「どうもこうもないわ、兄様」
「新しい体に、まだ慣れないんだ」
「おっ、おま…っ!! 幽霊じゃねえか!」
「失敬な、まだ生きている」
「足のあたりが、ぼやけてるぞ!」
「立体幻燈の、調子が悪いんだ。僕のせいじゃない」
黒田九郎の目が、前髪をさらりと額に垂らした細面の青年を凝視する。よく見れば。いや、よく見なくとも。
「…おまえ…。幽霊屋敷に、棲み着いてた奴じゃねえか!」
「白井のじいに頼んで、早くから買わせた僕の家だ。自分の屋敷に住んで、なにが悪い」
本物の坊っちゃんという奴は虫が好かないと、黒田九郎は唇を引き結ぶ。
笹木家の若き当主は、白く長い指を指しつ九郎の罪状を告げる。
「君こそ、不法侵入もいいところじゃないか。過去も今回も不問に付してやるから、早くこの小判を受け取り給え」
「質の悪い元禄小判なんか、お呼びじゃねえ。俺を釣りたいなら、慶長小判にしな」
「…ふむ。こやつ、見た目通りの馬鹿ではないようだな。どう思う、綾女」
「不毛な言い合いをしていても、しかたがないわ。ありのままを見てもらったら?」
兄妹は、視線を交わしてうなずき合う。
「俺を、とって喰おうっていうんじゃないだろうな」
九郎は濃い眉と強い眼差を一つ所に集め、文彦を睨みつける。
「…うむ、妙案だな。しかしながら、人の魂を抜く方法はまだ見つかっていない」
「…あのな!」
「まあ、ついてき給え。他言無用と言っておくが、話しても構わない。誰にも信じてはもらえないだろうからね」
笹木文彦が先に立つ。
細い背中を揺らめかせ、地下への隠し階段を下っていった。
行灯を掲げていても、土蔵よりさらに暗く湿って黴臭い。
陰気な場所に、何があるのか。こんなに深く土を掘って。大根でも埋めてあれば、褒めてやるのに。
開け放たれた座敷牢のような部屋には、西洋式の寝台がひとつ置かれてあった。
流しがひとつ、足元に置かれた壷のほかには何もない。白い指が、寝台の上を示す。
「僕だよ、あれが」
骨と皮ばかりに痩せた青年が、瞳を閉じていた。
気の毒なほど薄い胸がかすかに上下するので、息があることだけはわかる。艶のない髪が額に貼りつき、顔色は蒼白だ。
「…生きているだろう? だから、まだ幽霊とはいえない」
綾女は手にした布を洗い場で濡らし、痩せた青年の手足を拭ってゆく。
「長生きできないことは、子供の頃から告げられていた。僕は自分の心をからくり箱に、姿は立体幻燈で映そうと研究を重ねてきたのだ。そして、ある日のこと…何が起きたと思う」
床に伏せる男とそっくりな奴が、傍らでべらべら喋るせいで変な気分になる。
九郎は眉をしかめて訊いた。彼が、とても訊いてほしそうにしていたからだ。
「…あ? それで、どうなったんだよ」
「…自分の体に、戻れなくなった」
「それで、このザマか。幽霊みてえな姿で、ふらふらしてんのは。自分の体に戻れなくなったせいかよ。それも、手前の実験とやらの失敗で!」
「…君、ずいぶん失敬な奴だな」
「…事実だろうが。呑気にしてるが、一大事じゃねえか」
病床の青年が咳きこんだので、綾女はきっとなって二人を振り向いた。
「もう、病人を興奮させないで!」
きまり悪そうに肩をすくめた文彦は、言い訳らしい言葉を口にした。
「僕自身は、それほど堪えていないのだ。前より自由に動けるぐらいだからね。ただ…」
研究に打ちこむうち、病が悪化してね。綾女にはずいぶん世話を掛けた。そのことは兄として情けなく、申し訳なく思っている。
小声で言い添えた言葉に嘘はなく、力もなかった。
「どうか綾女を、助けてやってくれないか。僕にはもう…あまり、時間がない」
地下牢の隅で、青白く揺らめき燃えている。
命は、いのち。生の、血。
こんなにも青ざめているからには、体内の血も残り少ないと見えた。
平素なら、憎たらしい坊っちゃんだと臍を曲げただろう。こんな野郎の頼みなど聞いてやるかと突き放しただろう。
だが、黒田九郎にはそれができなかった。抑えた声を、床に向かって吐き出した。
「…で。あんたは何がしたいんだ。俺に、何ができると?」
「…請けてくれるのか」
「あんたは正直憎たらしいが、そこのお嬢さんが可愛いからな」
「綾女のことなら、僕だって可愛く思っている」
反射的に返した文彦が、気づいて小さく笑った。
「僕たちは、一つの点においては共闘できそうだな」
まずは、幻燈機の仕組みと使い方を教えよう。僕がいなくなった後でも、扱えるように。
この体は、もうじき滅するだろう。
しかし、この姿でなら存在し続けられるはずだ。親類縁者には、報せない。笹木家の当主は、依然としてここにあるのだからね。
綾女を守るために、僕はある。
もしも消えるときがあれば、彼女が僕の庇護を必要としなくなったときだ。その時までは、なんとしても現し世にあり続けたいのだ。
大きくがないが確たる声で、文彦は言い放った。「あんた…、本当にそんなモノになろうってのか」
生霊とも死霊ともつかぬ状態で、存在し続けるつもりなのか。
問いかける黒田九郎に向かって、笹木文彦はうそぶいた。
「…心配ない。八割方、発明は成っている。瑕瑾があるとすれば、幻燈で補強しているこの姿が、昼間はほとんど人の目に見えないことだよ。日光のほうが、強すぎるんだ」
「…あんた…。…屋敷の中にいたんだな! 逃げも隠れもせず、この場所にずっと」
幽霊を見たのでは、なかった。
幽霊屋敷を探検にきていた九郎は、彼の生霊を見たのだ。
暗く光る目が、九郎の眼差しをとらえた。彼は、低く言った。
「逃げる場所など、どこにある? 僕は変わらず、存在している。人々の眼差しのほうが、僕をすり抜けてゆくだけだ」
…人生五十年、下天のうちにくらぶれば、滅せぬもののあるべきか。
彼は天井の染みに目を据えながら、己の肉体が朽ちゆく音を聞いていた。
骨と皮ばかりで横たわっている病人の目は、変に明るく澄んでいる。
薄茶色をした虹彩の底に、深い澱がある。
薄く開かれた唇は乾いたまま声を発さず…目だけが生きて、燃えていた。
…生きる。生きてやる。何をしてでも、生きてやる…、と。
片足を棺桶に突っこみながら、気力だけで持ちこたえている。九郎の見たてでは、そういう奴はなかなか死なない。
粗織りの着物に包まれた肩が、震えるように揺れた。
親類縁者、金の亡者どもに何を言われてきたか知りはしないが。
「…上等じゃねえか」
不敵な笑みを唇に刻んだ九郎は、病人の肩と膝裏に手を差し入れた。
「……よっと。軽いな、ずいぶん」
「まあっ、黒田。兄様をどこへ連れてゆくの」
「カビくせー地下牢にいたんじゃ、治るモンも治らねー。もっと風通しのいい部屋に寝かせようぜ」
【続く】
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?