みんな好きでしょこういう話
今日は不幸話をしようと思います。
自分ではそうは思っていないけれど、人から見たらそう名前を付けられそうで、それを否定するのも面倒なので不幸話にしました。
中学生の頃、いじめに遭いました。
はいはい、でたよいじめね。と思った方。
まあ最後まで読んでみてくださいよ。
靴箱に置いていた靴に砂利を入れられて、机にカッターで無数の傷を付けられて、先輩からSNSで攻撃されて、部活ではいじめ定番の無視。
あの光景はいつまでも覚えているし、今でもたまにフラッシュバックして街中で涙が溢れる時もあります。もちろんトイレに駆け込んでその後何事もなかったかのように振る舞いますがね。
極論、自分にちょっかいをかけることで誰かが幸せになるなら、もうそれでいいなと思ってしまっていた節はあります。色々と諦めていたんでしょうね。担任が気付いて、面談をしてくれた時も「慣れているので大丈夫です」と答えた記憶があります。慣れることなんてないのにね。馬鹿だねえ。
目を逸らしたら負けだと思い、学校には休まず行きました。親にも最近になって話しました。俗にいうトラウマってやつですね。そんな陳腐な言葉で表したくはないのですが、きっとずっと癒えることはないんだと思います。
痛みに慣れてしまって、自分の心の動きに蓋をする癖があります。それは今も。
でも、そういったたくさんの傷と裏切りの上に今のわたしの人生があります。
だからむしろ感謝をしています。あの経験があったから人の痛みが分かるようになり、寄り添う心を覚えることができました。ここまで強い自分にはなれなかったはずです。
それに、他人を攻撃する人間ほど自分に自信がなく、他に夢中になれることがないのだと悟りました。
人が存在する限り、いじめはなくならないとわたしは思います。なにせ醜い生き物ですから。
そりゃあいじめがない世界で生きることができるのなら、みんなとっくにそちらを選んでいるはずです。でも、選ぶことはできないのです。
どう考えるか、どう感じるか、周りの大人がどう動くのか、それが大事なのだと思います。
これを読んでいるあなたには分かるでしょう?
さて、他人の不幸話が好きな人種の方々、どうでしたか。わたしの話は甘い甘い蜜の味でしたか?
なんにせよ、貴方が今日を生きるための活力になれたのなら本望です。こんな事を言葉にしてしまうわたしも相変わらずですね。
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