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小学校の入学説明会で感じた心のざわつき

前回の記事でブラジルでは多様性教育を幼少期から施していることについて書きました。
今回はこの経験を経て感じた、日本の小学校の入学説明会で感じた違和感について書いていきたいと思います。

私たちのことについて

この記事を書く前にざっと自分たちのことについて書いていきます。というのも今回は批判の意が多少なりとも含まれる記事を書くつもりだからです。しかしこれは私がブラジルに住むという特殊な経験をしたことと日本の教育事情を何も知らないということによるからかもしれず、批判をするのであれば自分たちの、特に自分の状況をまず書いておくべきだと思いました。現場の教育者の方からすれば見当外れである可能性もあると思います。その場合、優しくご教示いただけたらありがたく存じます。

私たち家族は幼い子どもが二人おり、数年間ブラジルに住み(住んだのは三年弱、息子がブラジルの学校に在籍したのはオンライン授業を含めて四年ほど)、そこで子どもたちは多様性を重視する教育を受けました。なお息子たちは渡伯前日本の幼稚園への通園経験はありません。
その後日本の関東の過疎化が進むいわゆる田舎の地域に移り、幼稚園に通いその後その地域の小学校に進学しました。

入学説明会で言われたこと

一通りのガイダンスの後、50歳代くらいで長年経験を積まれてきたと思われる教頭先生が「トラブルのもとになるので目立ったものを持たせない、着させないでください。」とおっしゃいました。私はこの一言が短い文言ながらも強烈に心に刺さりました。

なぜ心に刺さったのか。

それは日本でよく感じてきた「『普通』でなければならない」「平均的なものが良い」という強迫観念のようなものを我が子たちにも押し付けられているような心地になったからです。
もちろん、先生は今までの経験から「いかに学校内でのトラブルが起きないか」「いじめなど子どもたちが傷つくことを事前に回避できるか」ということをご存知で、このアドバイスはそのためのものであったと思いますし、それ以上の意はなかったのだと思います。人が羨む素敵なものを持っていたら、妬まれたり盗まれたりすることもあると思います。
しかし、私はこの考え方は結果的に子どもたちの考えを不自由なものにしていくと思いました。
「『普通』でなければならない、目立たないようにしなければならない」という考えは、次第に普通でないものや目立つものを排除する考えに変わっていくのではと思います。それは目立つようなおしゃれをしないようにするという教頭先生が指摘されていたことはもとより、他人とは違った見た目や考え方は変だ、という考えを持つようになり、更には生まれつき身体的精神的な特徴を持つ人を排する考えにさえ繋がらないかと思いました。この指示が「普通」を信仰させることに繋がり、その信仰こそが「普通」の枠からはみ出た者をいじめの対象にするということもあるのではないかと思いました。

なぜ幼少期からから「みんな違ってみんないい」という考え方を徹底して教えないのか。このためには目立つものを持ったり着たりすることを多少のトラブルが生じることも折り込み済みで制限しないでおいたら良いのでは、と思いました。更に言えばブラジルで私たち家族が体感したような人が持つ目立つものやことをを他人が称えるような風土になれたらよいのに、と思いました。

もちろんこれは日本の教育現場を知らない一母親の理想論なのかもしれません。

終わりに

教頭先生のこのひと言がブラジル帰り&ブラジルかぶれの母親の心に刺さり、このようなことを悶々と考えてしまいました。日本の教育の方が素晴らしいと思う点も数多くあります。次回以降私が感じた日本の学校教育の素晴らしさについても書いていきたいと思います。しかし多様性教育に関しては、日本の学校教育だけでは心許ないかもしれない、感じてしまいました。家庭内で私自身の言葉や態度などを通じ、「個性的でもよい」「みんな違ってみんないい」という考えを息子たちに伝えていきたいと思っています。

※最後に冒頭の写真をamanoccoさまからお借りしました。素敵な絵をありがとうございました!

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