子どもの人格形成と家。
いつも通る道には大きめの交差点がある。
雪が降る冬の日でも、うだるような暑さの夏でも関係ない、1年365日のうち60%くらいはそこを通るという道に交差点がある。必ず通らなければならない交差点。毎日とは言わないまでもほぼ毎日通る交差点。
その交差点の一角では1年ほど前から工事がされていて、なにやら建物が建つようだった。
何が建つのかはわからなかった。
工事現場には現場作業員の方々がいつもいて、基礎工事から始まり足場が組まれ、建物ができあがっていく。建物の足場には布のようなものがかけられ、何が建つのかはわからない。興味もなかった。
が、ある日その交差点を通ってみると、いつもかかっていた布が外され、そこには家が建っていた。テッカテカの家だ。1年くらいかけて建てられていたのは家だった。知らなかった。
あぁ、家だったんだなぁ、と思った。
新しく建てられた家を横目に交差点を通りすぎながら、歩く。
そして思ったのである。
これは人格の形成とよく似ているな。
毎日歩く交差点、そこには何かわからない建物の工事がなされている。その場所に常にあって動くことはない。建物だから。着々と工事が進む。だがどんな建物が出来上がるかは傍目にはわからない。だけど毎日毎日工事は進み、やがて陽の目を浴びる家となる。
一方で人格は。
例えば子育て。毎日会う自分の子供。子どもは常にその家の中にあってどこかに飛んで行くことはない。我が子だから。着々と育つ。
顔は毎日目まぐるしく変わり、その言葉をどこで覚えてきたのか、と驚くことも増える。だが、どんな大人になるかはわからない。それでも毎日を過ごし、目には見えないけれど成長していく。
よくある親戚の言葉。「お前がそんな大人になるとはなぁ」である。
家も子どもも、毎日見ていると変化には気づかない。
が、家のように、子どものように、やがて気づくときがやってくる。
家には設計図がある。完成体をあらかじめ決めておき、それにむかって作っていく。
子どもはどうか。望ましい姿になるようにコントロールはできるかもしれないが、親ができることはたかが知れている。設計図はあるようで、ない。子どもの発育は親以外の環境に依るところが多いし、なにより発育を親にコントロールされた子どもは、ある意味で不幸ともいえるかもしれない。
そう考えると、子どもは植物に似ている。
丁寧に水を与え、日光を浴びせ、曲がらないように添木をし、まっすぐにまっすぐに育つようにサポートをするのが子育てであろう。
周りに他の植物がどう群生するかまではコントロールできない。厳密にいえば、そこすらもコントロールしてもいいかもしれないが、そこをコントロールしてしまうのはある種の倫理観に反するようなそんな気もする。
子育てに正解はない気がするし、子育てをしたこともないのだけど、いつもの交差点を通り過ぎるとき、そんなことを考えた。だからこうして記事にした。
いつかの自分に役に立つように。
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